自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

私が物体の知識とそれらの状態を変える力の知識を定めてきた推論の堅固さを、

 あなたは今や確信していると私は心の中で信じている。


全てはもっとも決定的な実験を、また理性により決定される原理を基本としている。


それらが不合理に巻き込んだりすることも、

 それらが、他の原理によって、同等に確かな(原理を)否定されることも無い。


いくらか首尾よくこの種の研究で進歩が遂げられてから、まだ日は浅い。


そのような奇妙な考えは、物体の性質に関して、以前は面白がられた。


つまり、あらゆる種類の力は、
 あるものが他のものを必然的に破壊(無効に)しなければならない、  
  というそれら(説)に帰せられた。


ある哲学者は、実に、

 想像する限り、物質自身が思考という能力を授けられたのかもしれない
  と
いうところまで進んだ。


唯物論者という名で知られるこれらの紳士らは、

 われわれの魂と全ての精神は、一般的に、物質である

  ということを支持する。


いやむしろ、むしろ、かれらは魂と精神の存在を否定する。


しかし、一旦われわれが物体の知識、
つまり、それらがその状態を継続することによる慣性

 さらに、それらがそれを変化しうる力を持つことによる性質、
  不可入性
への正しい道に入ったなら、

   私がそれとなく言及したあらゆるそれらの力の幻影は遠く消え去り、

    物質が思考できると断定する以上に、さらに目立った不条理におもえるだろう。


考えること、判断すること、推理すること、精神的な感覚を持つこと、
 反映し且つ意志を働かすことは、物体の性質とは相容れない本質である。


そしてそれらを授けられた生物はさまざまな性質を持つのである。


そうしたものが魂と精神である。


さらに、最高度にこれらの本質を所有する彼こそが神である。


次に、肉体と精神との間には永遠の相違がある。


広がり、慣性、不可入性−すべての思考を排除する性質−は、物体の特性である。


しかし、精神は考え、判断し、推理し、感じ、反映し、
意志を働かせ
 または他よりもさらに望ましいある対象のために判断するという能力を与えられている。


ここには、広がりも慣性も不可入性も無い。


これらの物質の本質は、永遠に精神から離れているのである。


精神とは何か?と尋ねられる、わたしはこれについて自分が無知であることを認める。


そして、私は答える。

 われわれが精神の性質についてなにも知らないように、

  それが何であるか語ることはできないというのが全てである、と。


しかし、この世界が2種の存在から成り立つということはより確かでないわけではない。


それらは、互いに無関係であるという特性により、われわれ(の前)に現われるので、

 肉体的または物質的(な存在)、と非物質的または精神的(な存在)、その性質は全く異なる。


それにもかかわらず、これらの2種の存在はもっとも親密に結ばれている。


そして、主に、知的な存在の愉しみである世界の全ての謎は、それらの結合に依存し、

 さらにそれらの神を賛美するほうへそれらを導く。


精神が世界の主要な部分を成し、

 肉体は単にそれらに仕えるだけのために導かれるということは確かである。


この理由により、動物の魂はかれらの肉体と非常に親密な結合状態にある。


魂が、かれらの肉体になされるあらゆる影響を知覚するばかりか、

 それらはこれらの肉体に作用し、且つ類似の変化を彼らの内に生み出す力をも持つのである。


このようにして、それらは世界に有効な影響力を働かせる。


疑いなく肉体と魂の結合は、神聖な神についての最大の謎
 −われわれが決して説明できない謎−であり、常にそうだろう。


われわれは、
人間の魂が肉体の全ての部分に直ちに作用することはできない、

 ということを完全に意識している(わかっている)。


ある特定の神経が切られるやいなや、私はもはや自分の手を閉じることもできない。


魂は、神経の末端を伝わってのみ力を持つことが結論されるだろう、

 即ち、すべては、最も熟練した解剖学者も正確に指定できない場所である脳の一部分で終わり、
  結合する。


そのとき、これにより魂の力は制限される。


しかし、制限されることのない(無限である)神のそれ(魂の力)は、
 全宇宙に拡大し、そして、われわれの理解をはるかに超えてその力を発揮する。


     1760年11月19日

 

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