自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

精神と肉体は全く性質を異にする実在または物質であり、

 さらに、世界は2種の物質、1つは精神的な、もう一つは肉体的または物質的なものから成る。


それらの間に存在する厳密な結合は、かなり特別に注目に値する。


魂と肉体のこの結合は、あらゆる動物における、最も不思議な現象である。


それは2つのものに分類される。

 −あなたが十分よく知っているように、
  即ち、見ること(視覚)、聞くこと(聴覚)、嗅ぐこと(臭覚)、味見すること(味覚)、
   触れること(触覚)の5つの感覚により、

    魂が、その肉体に起こる全ての変化を、感じまたは知覚するのが1つ。


さらに、これらにより、魂は、自身の肉体の内部ばかりか、
 その外部でも起こる全てのものを認識する。


触覚と味覚は、肉体と直接的に触れるだけでそれらの対象を表わす。


臭覚は近距離で対象を、聴覚はさらにもっと離れた距離に拡大し、
 視覚は最も離れた対象の知識をわれわれにもたらす。


全てのこの知識は、対象がわれわれの感覚のどれかに影響する限りにおいてのみ獲得される。


しかし、まだ、これは十分ではない。

 −そのような感覚器官はまったく健全であるべきで、
  それに関係している神経が撹乱されてはならない、ということが必要である。


見るためには、対象物が眼底で網膜上に厳密に描画されなければならないということを

 あなたは思い出すだろう。


しかし、まだこの描写(表現)は魂の対象ではない。


それが完全にうまく定義されているにしても、あるものが見えていないはずである。


網膜は脳へと伸びる延長部分、つまり神経組織である。


そして、もしこの延長部分が、
 視神経と呼ばれるこの神経につけられた何らかの損傷により中断されるならば、

  いかに完全に網膜上に表現されようとも、見えないだろう。


脳内のその最初の起源まで、
 感覚(知覚)で使われる器官に作られる作用を運ぶことを運命付けられた

  神経により働くものは全て、他の感覚についても同じである。


さらに、脳内には、全ての神経が終着点となる特定の場所がある。


そこには魂が存在し、そこでそれは感覚により作られる作用を知覚する。


これらの作用から、魂は、自身の外のものについて持つ全ての知識に起源を持つ。


それから、それはその最初の認識に由来し、それらの結合により、
 判断、反映、動機、その知識を完全にする必要がある全てのものを形づくる。


そして、そのようなものは肉体が受け持つことのない魂の仕事である。


しかし、最初の作用は、たとえ肉体の器官を通そうとも、感覚からそれ(魂)にやってくる。


魂の最初の能力は、
 何がすべての敏感な神経が終点となる脳の一部を通過するのか、
  を知覚するまたは感じることである。


この能力は、感覚または知覚と呼ばれる。


ほとんど受身の魂は、その瞬間は何もしないが、肉体がそれを引き起こす作用を受ける。


しかし、
それがその肉体に影響する力をもち、且つ自由にその中に運動を生じることにより、

 それは次第に活動的な能力を持つ。


つまり、これは肉体を超えるその力に含まれる。


こうして、私は、私の意志の作用により私の手と私の足を動かすことができる。


さらに、私がこの手紙を書くように、私の指を動かしているのは何の運動であろうか?


しかしながら、私の魂は、直ちに私の指のどれかを動かすことはできない。


1つの指を運動させるためには、

 さまざまな筋肉が活動状態になければならないことは必然である。


そして、この活動は、また脳で終着となる神経により力を発揮する。

 −もしそのような神経が傷つけられると、
  私が自分の指を動かそうとする目的が無くなるだろう。


それはもはや私の魂の命令に従がわないだろう。


こうして、私の魂の力は全ての神経が一つになる脳の小さな場所にのみ広がる。


感覚は同様に脳のこの場所に制限される。


その時、魂はこれらの神経の末端でのみ結合され、

 それ(魂)は、作用の力ばかりでなく、
  鏡の中のようにそれが見ることができることにより、
   肉体の器官に作用する全てのものをも持つ。


肉体外でそれらを引き起こされ、

 神経の末端に生じるわずかな変化から結論できるとは、

  なんとすばらしい場所(アドレス)であろうか!


例えば、木は、光線により、完全にそれと同じ鏡像をレティナ(網膜)上に生じる。


しかし、神経がそれから受ける作用は、なんとほんのわずかであろうか!


しかしながら、その木の概念を魂の内に引き起こすのは、

 それらの器官まで神経に沿って継続されるこの作用である。


その後、魂が神経の末端に起きる最もわずかな作用は、

 直ちに筋肉に伝達され、即ち実行に移され、

  それが正確にその命令に従って動かそうと望んだ手足に施される。


われわれの体と動物の体に擬した、

 糸を引くことである運動をさせられる機械は、一連の仕組みを提示するだけである。


神の業は永久に人間の技術の生産物を超えるのである。


     1760年12月2日

 

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