どこから楽曲の繊細な部分が喜びの感覚を引き起こすのか?ということは、
不思議なほどに重要な質問である。
学者はこの問題に関して意見が異なる。
ある者は、それは単なる気まぐれだといい、
またある者は、音楽によって生まれる喜びは原因不明であるという。
なぜなら、ある者には心地よいものも、他の者には嫌悪感を抱かせることがあるからだ。
これは問題を解決するどころかいっそう複雑にさせるだけである。
判断すべき重要な点は、全ては理由も無く起こるものは無いと認められるので、
どのようにして楽曲が非常に異なった効果を生み出すということになるのか?
ということである。
繊細な音楽に由来する喜びは、それを浸透する秩序の認識で成り立つ、
という説をあるものは支持する。
この意見は一見十分満足行くもののように思えるが、より注意深い審査をするに値する。
音楽は、秩序を必須とする2種類のものを人に贈る。
一つはシャープとフラット音の違いに関係する。
そして、それは同時に各音により行われる振動数で構成されるということを、
あなたは思い出すだろう。
全ての音の振動の速さの間を認識するこの相違は、正確には和声と呼ばれる。
われわれが、
それを組み立てる音全ての振動の関係を感じるという楽曲の効果とは、
和声の製作である。
かくして、1オクターブ異なる2つの音は1:2の関係、
第5は2:3の関係、
greater
third(3度以上)は4:5の関係を引き起こす。
さらに、われわれが、それが組み立てる音を広げる全ての関係を知るとき、
われわれは和声に見出される秩序を理解する。
そして、この知識へと導くのが耳の知覚である。
この知覚は多少扱いにくく、
特に音の関係がいくらか大きな数により表現されるとき、
同じ和声があるものには感じられ、他のものには全く無いその理由を決定する。
音楽は、和声の他に、秩序に同じく影響されやすい別の対象、
即ち、われわれが各音に一定の間隔を割り当てる、拍子を含む。
そして、拍子の認識はこの持続期間の、さらにその結果生まれる関係の知識で成り立つ。
ドラムとシンバルは拍子だけが起きる音楽の例を提供するものであり、
全ての音が自身の間で等しいので、そのとき和声は無い。
同様に、拍子を排除して全体的に和声で構成するのが音楽である。
この音楽は全ての音が同じ持続期間をもつ合唱である。
しかし、完全な音楽は和声と拍子を結合する。
かくして、楽曲を聴き、
且つ和声と拍子の双方が見出される割合を彼の耳の鋭い知覚で理解する鑑定家は、
確かにその音楽の可能な最も完全な知識をもつ。
一方、これらの部分のみの割合を理解するか、
全くわからないあるものは問題は何も無いと理解するか、
その非常に貧弱な知識をせいぜい持ち合わせるだけだ。
しかし、もしその関係が認識されることがなければ、
楽曲はなにも生み出さないということを自信を持って断定できるが、
音楽によって引き起こされる喜びの感覚は、
私が話して来たこの知識と混同させるべきではない。
というのは、この知識だけでは喜びの感覚を引き起こすには不十分なのでである。
だれもこれまで明らかにしなかった、何かがさらに必要である。
楽曲の全比率の知覚のみでは喜びを生み出すには不十分である、
ということを納得させるために、
あなたは、比率の知覚がおそらく最も容易であるたった1オクターブで進行するような、
非常に簡単な構成の音楽を考えさえすればよい。
あなたはそれの最も完全な知識を得るかもしれないが、
そのような音楽が喜びをもたらすことはないだろう。
さらに、喜びは実際そう容易には達成されない知識−何らかの問題を起こす知識、を要求する。
即ち、もし私がその表現を用いてよいならば、何かを必要とするに違いない。
しかし、私の考えでは、これも満足行く答えではない。
最も高い数によって表現される関係、ディソナンス(不協和音)はさらに困難に陥る。
連続するディソナンス(不協和音)は、
しかしながら、選択無しに、また計画無しに、楽しむことはできない。
それゆえに、作曲家は、
真の知覚可能な比率をもって行われる一定の計画を
彼の仕事において実行しなければならない。
そのとき、そのような楽曲を聴きながら、
比率のほかに、作曲家が目論んだ見事な計画と構想を理解して、
鑑定家は、その魅了する技巧の美と繊細さを楽しむことを常とする聴覚に、
極めて美しい音楽により生み出される喜びで構成される充足感を感じるだろう。
そのとき、それは多分作曲家の視覚と感覚を推測することから起こり、
幸運なときは、その演奏が心地よい感覚で精神を満たす。
それは、
あなたが、表現されようとしている身振りと動作、感情と対話により推測するかもしれない、
また、よくこなれた計画の他に存在する、
うまく演じられたパントマイムに由来するものに多少似た満足感である。
殿下の気を実に紛らわしたであろう煙突掃除屋の謎は*、別の優れた比喩を私に提供する。
あなたが感覚を推測し、
さらにそれがまったく謎の提案で表現されるということに気づくとき、
あなたは発見をすることに大いに喜びを感じる。
しかし、つまらなくつじつまの合わない謎はなにも生み出さない。
もし私が判断を許されるなら、
そのようなものが、
音楽の作曲のすばらしさが発見されることに関わる真の原理である。
1760年5月6日
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