自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

私が説明しようと努力してきた物体の不可入性を基本とした力の起源は、

 人間の魂や動物の魂がそれらの物体に作用する力を持つ
  ということを支持する人々の意見と決して矛盾しない。


世界に起こる全ての変化を生み出す2種類の力の存在を妨げるものは何も無い。


一つは、その起源を物体の不可入性に由来する物質的なもの、

 もう一つは、動物の魂がその肉体を越えて働く精神的なものである。


しかし、この後者の力は生命を与えられた肉体のみに作用する。


さらに、神はそれと他のものを非常に明確に区別したので、
 哲学において、それらを混同することは許されない。


しかし、この区別は物体固有の性質として引力を考える者を大いに困らせた。


というのは、もしそれら(引力)が
 それら(物体または肉体)の不可入性を維持するためにのみ互いに作用するならば、
  引力はこの場合にあてはまらない。


2つの離れた物体が、何の関心もないそれらの不可入性無しに、

 さらに、なぜ一方がそれを引きつけることにより当然他方に影響するのか、

  という結論についてのなんの理由もなしに、

   各々その状態を維持するかもしれない。


それゆえに引力は、物質的でも精神的でも無い第三種の力に当てはまるに違いない。


しかし、それらの存在が明白に証明される前に、新種の力を取り入れるのは、

 常に合理的な哲学の規則に反する。


それゆえ、この効果に対し、矛盾無く証明することが必要とされてきた。


即ち、物体が相互に引きあうこの力は、
 その起源を、それらを取り囲む薄く広がる物質に尋ねることができない。


しかし、不可能性はまだ証明されていない。


神が、それらの不可入性が確立される前に、法に則り、

 互いに向けさせるこれらの力を生み出すために、

  特に天の全空間を薄く広がる物質で満たしたと、逆に考えられる。


事実、この薄く広がる物質は、

 その中の物体が、それにより貫通されることなく、
  その状態を維持することができるはずがないかのように、非常によく運動する。


さらに、この力は、物体自身の不可入性と同様に

 薄く広がる物質の不可入性に由来するはずである。


2つの物体が互いに引き合うのが、世界でただ1つの場合であったなら、

 介在する空間が薄く広がる物質で満たされていなくとも、

  引力の実在は、非常によく認められただろう。


しかし、そのような場合は存在しないので、

 結果として、われわれには疑うべき理由、否、それを拒否さえする理由がある。


そのとき、これらの変化、物体の不可入性、
 精神の作用を生み出す
あらゆる力の2つの源をわれわれは知っている。


ヴォルフ
の弟子たちも同様にこの法則を拒否し、

 精神または実体の無い物質は物体に作用できない、

  ということを支持する。


さらに、彼らによると、

 精霊である神自身が物体に作用する力を持つことはできないと言い立てられるとき、

  彼らは非常に困らされる。


それは強力な無神論を醸し出す。


従って、かれらはこのばかばかしい答えに立ち至る。


即ち、神が物体に作用することができるのは、無限なるものであるということによるのである。


しかし、もし精霊中の精霊が物体に作用することができないならば、

 この無力は必然的に神自身に跳ね返る。


そして、われわれの魂がわれわれの体に作用することを、だれが否定できようか?


私は、私の手足の主人のようなものであり、

 即ち、私は自分の好みの動作を手足にさせることができる。


同じことが野蛮な創造物についても断言されるだろう。


われわれが笑うのは尤もであるとするデカルトの仮説によると、

 ヴォルフ支持者が、人間もまた単なる機械に過ぎないとしたように、

  獣は見たとおり、なんの感情も無い、単なる機械である。


これらの同じ哲学者は、彼らの憶測で、

 かれらが何も知らない第一の種の力を否定する限りにおいて、さらに進む。


いかにしてある物体が他の物体に作用するのか、を理解することができないために、

 かれらは大胆にもその作用を否定する。


そして、物体に起こる全ての変化は、物体がそれ自身の力により生み出される、

 ということを支持する。


彼らは、彼らの全仮説を覆すのに十分である同じ状態の維持についての
 力学の最初の原理を拒否するものとして、わたしが以前に言及した哲学者である。


彼らが陥った誤りは、私が既に述べたように、

 物体がわれわれに示す現象についての決定的でない彼らの推論から起こる。


かれらは、それらの状態を絶えず変えるほとんどの物体を観察することから

 大慌てで推論した。


即ち、それら(ほとんどの物体)が絶え間なくそれ(状態)を変えようと努力することにより、

 それらは力を自身の中に含んでいた。


ところが、かれらは真逆の結論を引き出さねばならなかった。


それは次のようなものである。

表面的な方法で対象を考えることにより、われわれは短兵急に最もひどい誤りを犯す。


私は既にこの推論の欠点を指摘した。


しかし、一旦誤りに陥ると、かれらは最も矛盾した考えに熱中した。


彼らは最初、これらの内部の力を、

 かれらによると、それらの状態を絶え間なく変えようとする

  物質の基本要素に基づくとした。


そして、あらゆる要素が受ける全ての変化は、それ自身の力により生み出され、

 2つの要素または単純な存在は互いに作用しあうことはできない、

  と結論した。


これが主張されることで、

 しかしながら最高の存在(神)を除いて、

  単純な存在のように、物体に作用する全ての力の精神を奪うことが必要であった。


さらに、物体が単純な存在で構成されるように、

 かれらは、物体が互いに作用可能であるということも、やむを得ず否定した。


互いに向かって衝突する物体の場合やその結果生じるそれらの状態の変化を、

 彼らに反論することは無駄であった。


彼らの推論の堅固さゆえに、根強く先入観を抱いていたので、

 かれらはそれを諦めることを潔しとしなかった。


かれらはむしろ、
あらゆる物体は、それ自身の性質からそれに起こる変化を生み出し、

 さらに衝突は、それに伴いなにもすることがない、

  と断定することを選んだ。


即ち、その原因となる衝突をわれわれに信じさせるものは、単なる幻覚(錯覚)である、と。


そして、かれらは、一般大衆の理解をはるかに超えた哲学の絶頂で意気揚々としている。


あなたは、今、真の重要性にしたがってそれを判断する状況にいる。


     1760年11月25日

 

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