自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

物体が静止状態にあるかぎり、それは同じ状態を維持する、ということと同様に、

 物体が同じ方向に且つ同じ速度で運動するがぎり、それは同じ状態を維持すると、

  運動中の物体についても言える。


さらに、同じ状態を継続することは、
 静止のままであるか、または同じ運動を維持することを意味する。


この話法は、われわれの偉大な原理をもっと簡潔に表現するという目的のために採用されてきた。


即ち、あらゆる物体は、外からの要因がそれを乱しにやって来るまで、
 その性質により同じ状態を保持する。

 −即ち、静止状態のとき、物体を運動状態にすること、またはその運動をかき乱すことである。


同じ状態を維持するためには、
 物体はずっと同じ位置にあり続けなければならないと考える必要は無い。


これは、事実、物体が静止状態にある場合である。


しかし、それが同じ速度で同じ方向に運動するとき、

 たとえそれが瞬間毎にその位置を変えていようとも、

  それは同じ状態のままである、と言うのと同じである。


位置の変化とその状態を混同する可能性を防ぐためには、

 これに気づかせることが必要であった。


もし、なぜ物体が同じ状態のままなのか?と尋ねられたら、

 答えは、これは、それらの特有の性質のためである、ということでなければならない。


もしそれらがある外的要因によりその外へ引きだされないならば、

 全ての物体は、それらが物質で構成される限り、同じ状態のままであるという特性を持つ。


さらに、これは、

 それらが、静止か運動のいづれかの同じ状態に自身を維持しようとすることによる、

  物体の性質を基礎とした特性である。


あらゆる物体が賦与され、それらに必須であるこの性質は慣性と呼ばれ、

 さらに、それは広がりと不可入性同様にそれらの構造の中に必然的に入っている。


つまり、この慣性を奪われたら、物体が存在することは不可能だろうというほどに、である。


この言葉は、
 全ての物体が静止しようとする傾向をもつ
  ということを支持した哲学者によって最初紹介された。


かれらは、努力より休みを好む怠惰な人にやや似ていると、物体を考え、

 さらに、怠け者が労働者に対して持つのと同じ、運動への反感を物体のせいにした。


慣性
という言葉は、怠惰であるということとほぼ同じことを意味するのである。


しかし、この意見の誤りは以前に見つけられ、

 物体が、その静止状態と同様に、それらの運動状態をまた維持することは確かではあるが、

  まだ慣性という言葉は、

   静止状態か運動状態のいづれかの同じ状態を続ける物体の特性を

    一般的に表わすために使われ続けてきた。


それゆえに、慣性についての正確な考えは、

 物体の状態を変える傾向を持つあらゆるものへの嫌悪である。


と言うのは、物体が、その性質により、運動または静止という同じ状態を維持し、

 さらに、(その状態のままでは)外的要因によって
  それを外へ引きだされることができないので、

   物体のその状態を変化するためには、

    それが常に同じ状態のままで無ければ、

     それは強制的にある外的要因により外へ出されねばならないのである。


ゆえに、われわれはこの外的要因に、または外力と言う名を与える。


それが使用されることにより、

 多くの者はそれに対し非常に不完全な考えを持つけれども、

  それは良く使われる言葉である。


私がちょうど言ったことから、

 外力という言葉が、物体の状態を変えるうる全てのものを意味することを

  あなたは知るだろう。


このように、静止状態にあった物体が運動状態になるとき、

 この効果を生じるのが、外力である。


さらに、運動中の物体がその方向と速度を変えるとき、

 同様にこの変化を生み出すのが、外力なのである。


物体の運動における方向または速度の各変化は、外力の増加または減少を必要とする。


それ故に、そのような外力は、状態を変化させられる物体の外に常にある。


というのは、ある状態にしたままの物体は、

 もし外力がそれに作用することが無いならば、常に同じ状態を維持する、
  ということをわれわれは既に知ったはずだ。


さて、物体が同じ状態を維持しようとする傾向を持つことによる慣性は、
 
物体自身の内部に存在し、且つその本質的な特性である。


それゆえに、外からの力がいかなる物体の状態をも変えるとき、

 同じ状態にそれを維持するであろう慣性は、その力の作用に抵抗する。


そしてその結果、慣性は測定の影響を受けやすい性質があること、

 または、ある物体の慣性は、別の物体のそれより大きいかまたは小さいかもしれない、

  ということをわれわれは理解するのである。


しかし、物体は、それらが物質を含むかぎり、この慣性を与えられている。


われわれが物体の量を評価することは、

 全く慣性によるか、またはそれらがあらゆる状態の変化に反抗する抵抗によるのである。


従って、物体の慣性は、それが含む物質の量に比例してより大きくなる。


ゆえに、大きな物体の状態を変えるためには、
 小さな物体のそれよりもより大きな力が必要である、

  とわれわれは結論する。


さらに、大きな物体は小さな物体よりも多く物質を含むとわれわれは続けて結論する。


この簡単な事、つまり慣性がわれわれに物体を知覚可能にする、と断言されるだろう。


その上、慣性が測定の影響を受けやすいことや、
 物体が含む物質の量と同じであることは明らかである。


われわれは、同様に物体の中の物質の量をその質量と呼ぶので、

 慣性の大きさは質量のそれと同じである。


さらに、これにより、

 一般的にわれわれの物体に関する知識が分類される。


第一に、全ての物体は3次元の広がりをもつことをわれわれは知っている。

第二に、それらには不可入性があること。


それ故に、それらがその状態を自ら維持するという慣性と言う名前によって知られる、

 それらの一般的な特性が結果として生じる。


即ち、物体が静止状態にあるとき、その慣性により、それはそのままなのである。


そして、それが運動状態にあるとき、

 同じ速度で同じ方向に運動し続けるということは、同様に慣性によるのである。


さらに、ある外的要因がそれに変化を起こすために介入するまで、

 この同じ状態の維持が続く。


物体が変化する度毎に、

 われわれは物体自身の中にそのような変化の原因を探す必要は全く無い。


それは常に物体の外にあり、

 これは、われわれが力または外力(の考え方、概念)を形成しなければならない

  正しい考えである。


     1760年11月8日

 

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