自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

私が説明しようと努めてきた慣性の考え方と共に、

 力学の基本的な原理により、

  自然の中でわれわれに示されるさまざまな現象について、

   われわれは確固たる根拠に基づいた結論を出すことができる。


一様に一直線に前進すべき、
 即ち、同じ方向と同じ速度を維持するべき運動状態の物体を見る場合、

  運動のこの継続の原因が物体の外に見出されるはずがないのだが、

   それは現実の自然に見出され、

    さらに、慣性により、それは常に同じ状態を維持する、

     と、われわれは言うだろう。


われわれが言うように、物体が静止しているのは、即ち、これは慣性のために起こる。


同様に、われわれが、
この物体は何らかの外的要因からなんの作用を受けない

 と言うのは正しい。


または、もしそのようなものが存在したなら、

 即ち、もしそれに作用する力が無かった場合、物体があるべき状態になるような仕方で、

  逆にこれらの力が互いを無効にする。


なぜ物体はこの方法で運動を維持するのか?
 ともし聞かれたら、その答えは明らかである。


しかし、なぜこの物体はこのように運動し始めたのか?
 と聞かれたら、その質問は全く異なる。


もしそれが前に静止状態だったなら、

 この運動は、何らかの外からの力(外力)から力を伝えられたといわれるに違ない。


しかし、その力の大きさに関して、確実になにかを断言することは不可能であろう。


なぜなら、おそらく、その軌跡が残らないからである。


それゆえに、

 だれが世界の始まりに、あらゆる物体に運動を与えたのか?

  もしくは、だれが最初の発動者か?

   と尋ねることはおおいに馬鹿げている。


そのとき、この質問をする者は、始まりと結果的には天地創造を認めるのである。


しかし、かれらは、神が静止中の全ての物体を想像したと思っている。


そこで、物体を想像できた神がそれらに運動を与えた、

 ということが答えられるだろう。


かれらが、運動状態より静止中の物体を創造する事の方がもっと容易であると思うかどうか?

 と、わたしは私の見解で彼らに尋ねる、


かれらは、共に等しく、神の無限の力(全能)を必要とする。


そしてこの質問は哲学の範囲に属さない。


しかし、物体が一旦運動を受容した場合、

 外力またはある外的要因が、それへの障害に抵抗するまで、

  それ自身の性質またはその慣性により、その運動を維持する。


そのとき、われわれが
物体は同じ状態を維持しないこと、
 即ち、静止中の物体が運動し始める、または、運動中の物体が方向または速度を変化する、

  ということに気ずく度に、

   われわれは、この変化は物体の外にその原因があり、

    外部の力によって起こされることを認めねばならない。


このように、放って置かれた石が落下するように、

 その落下の原因は物体とは無関係である。


更に、物体が落下するのはそれ自身の性質によるのではなく、

 つまり、われわれが引力(gravity:重力)という名を与える外的要因の効果により落下する。


その上、引力(
gravity:重力)は物体の本質的な特性ではない。


それはむしろ外的な力の効果であり、物体の外に求められるべき原因である。


われわれは、引力(
gravity:重力)の原因となる外的な力についてはわからないけれども、

 これは幾何学的に真実である。


われわれが石を投げるとき、それは同じである。


それが一直線の方向にその運動を続けないことを

 われわれははっきりと見る。


さらに、その速度は常に同じ大きさで続かない。


同様に、物体の方向または速度を変えるのが引力(
gravity:重力)である。


しかしそれのために、石は空気中を一直線に落下し、同じ速度で前へ進むだろう。(*1)


そして、もし石の運動中に、引力(
gravity:重力)が突然消滅したならば、

 引力(gravity:重力)がそれに作用するのを止めたその瞬間に、

  それは一直線に運動を続け、且つ同じ方向と同じ速度を維持するだろう。


しかし、引力(
gravity:重力)が絶え間なく、且つあらゆる物体に作用するので、

 われわれが方向と速度が同じ大きさで続く運動に出会うことがなくとも

  われわれは驚く必要は無い。


静止の場合は非常に良くあることなのだ。


それは、克服しがたい何かが物体の落下の邪魔をするときである。


例えば、私のアパートメントの床はその下への私の落下を妨げる。


しかし、われわれに静止しているように見える物体は、

 直線でも一様でもない地球の運動に沿って運ばれている。


それゆえ、これらの物体が同じ状態を維持するとは断言できない。


一直線で、且つ常に同じ速度で運動する天体は1つもない。


それらは絶え間なくそれらの状態を変えている。


そして、この継続的な変化を生み出す外力は、われわれに知られていないのではない。


それらは天体が互いに働かす引力の力である。


全ての天体を取り巻き、全天空を満たす薄く広がる物質により、

 これらの外力が発生される可能性は大いにあるだろうと、私は既に述べた。


しかし、物質の中に内在する力として引力を考える人々の意見によると、

 この外力は、それが作用する物体とは常に無関係である。


よって、われわれが地球は太陽に向かい引かれていると言うとき、

 地球に作用する外力が、地球自身の中にも太陽の中にも内在するのではない

  ということが、自認されているのである。


事実、もし太陽が存在しなかったなら、そこにそのような外力はなかっただろう。


しかしながら、
引力が全ての物質に必須であるというこの意見は、

 あまりにかなり多くの他の不都合の対象となりすぎて、

  合理的な哲学における地位を容認される可能性がほとんどない。


引力と呼ばれるものが全天空を満たす薄く広がる物質内に含まれた力である

 というこの考え方を推し進めることは

  確かに非常に安全である。

   たとえ、それがどのようなものか、われわれには解らなくとも。


われわれは、さまざまな他の重要な問題への自らの無知を知ることに慣れなければならない。


1760年11月11日


訳注)
*1:垂直方向には重力による自由落下運動、水平方向には等速度運動をすることを言っている。


 

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