自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

いかに堅固にこの原理が確立されようとも、

 何らかの外的要因がこの運動を乱しに入ってくることが無い限り、

  運動中のあらゆる物体は同じ方向と同じ速度で運動を続ける。

  −にもかかわらず、それは、
   運動の科学におけるなんら大した進歩ももたらすことは決してなかった
    ある哲学者により争われてきた。


われわれが、この科学においてなされたすべての偉大な発見に対し、

 恩恵を受けているかれらは、

  全てのそれらの研究がもっぱらこの法則の上で進歩してきたことに

   満場一致で賛成する。


私が計画を進め、且つ拒否するつもりの反論は

 2つの学派の哲学者によって攻撃される。


全ての物体はそれらの自然の状態である静止する傾向(性質)を持ち、

 さらに、運動がそれらを激しい状態にする、

  ということが、その一人により言い立てられている。


それゆえに、物体が運動状態にあるとき、

 それは、その真の性質から静止状態に戻ろうとする傾向を持つ。


そして、それは、あらゆる外部の、もしくは無関係な要因とは独立に、

 その運動を無効にしようとあらゆる努力をする。


かれらは非常に説得力のある体験を証拠として引き合いに出す。


即ち、かれらによると、

 賢明にもこの不本意なことにそむかない自然界には運動が無いということを、
  われわれは知っている
というのである。


彼らが言うところでは、

 ビリヤード台上で、どんな力でわれわれが玉を打とうとも、

  その運動はすぐに弱められ、そしてまもなく、静止状態に戻る、

   ということが、われわれにはわからないというのだ。


時計の運動が、
 それを始動させる外的な力により(運動を)続けるのを止めるやいなや、それは停止する。


それらが激しく動かされる外的な力よりも長くは、

 それらの運動は続かないということが、一般的に全ての機械に認められる。


その結果、物体が運動状態にあることは、

 それ自身の性質の中で、あるものからそれを保護する、ということでは決してない、

  とかれらは結論する。


すなわち、反対に、外的な力はそれを維持するために使用されねばならない。


もしこの結論が正しいなら、われわれの原理が完全に覆されるということを

 あなたは気づくはずである。


この原理によって、外的な要因がその中になんらかの変化を生じない限り、

 問題のボールや機械は、一旦運動状態になれば、同じ状態を常に維持しなければならない。


こうして、引き合いに出された実験では、

 運動を弱めさせる外的な要因はそこに無いので、

  われわれは、われわれの原理を捨てる必要性の下におかれるのだ。


しかし、もしわれわれがあらゆるものに注意を払うならば、

 われわれは運動の邪魔をする非常に多くの障害を発見するだろう。


即ち、われわれは

 それが早急に打ち砕かれるべきであることを

  もはや疑う必要などない。


事実、ボールの運動を弱めるのは、第一にビリヤード台上の摩擦である。


というのは、それは布地に対しこすれることなく前進することはできないからだ。


繰り返すが、物質である空気は、同様に物体の運動の低下を可能にする抵抗の原因である。


これを納得するには、あなたは空気の中で急速にあなたの手を動かしさえすればよい。


そのとき、ビリヤードテーブルの場合、
 ボールの運動を妨害する摩擦と空気の抵抗があり、

  さらに、まもなくそれを静止状態に変えることは明らかである。


さて、これらの原因は外的なものであり、且つ容易に理解可能である。


つまり、これらの障害に対し、ボールの運動は常に継続しなければならない。


同じ理由が、全ての種類の機械に適用できる。


つまり、さまざまな部分に作用する摩擦がかなり強くなると、

 まもなく機械を無理に静止させるのに十分な原因となることはあきらかである。


そのとき、この場合に言い立てられた運動の消滅をもたらす真の原因を見出すことで、

 即ち、これらの原因が外的なものであり、さらに運動する物体内には存在しないのであり、


その物体がそれらの性質に静止する傾向をもつということが、

 偽であることは明らかである。


それゆえに、われわれの原理は、完全な力の中に存在するのであり、

 先の反論から補強さえも手に入れるのである。


さらに、あらゆる物体は、

 外的要因が方向または速度またはその両方を同時に変えようと介入しない限り、

  常に一旦(外力を)受けると運動を維持する。


そして、こうしてわれわれは、われわれの原理と戦う敵の一集団を追い払った。


もう一つはもっと手に負えない。


というのは、かれらは有名なヴォルフ派の哲学者に引けをとらない。


かれらは、実際、公然とはわれわれの原理への反対を宣言しない、

 否、かれらはそれについて大いに敬意を表わしてさえいる。


しかし、かれらは、直接それに反対する他者を後押しする。


全ての物体は、それらの性質により、絶え間なくそれらの状態を変えようと努力する、

 ということをかれらは支持する。


即ち、それらが静止しているとき、それらは動こうとしている、

 さらに、もしそれらが運動状態になると、
  絶えずその速度と方向を変えようとする、というのだ。


私があなたの前に示す機会が今後あるであろう、

 かれらの形而上学の仮説から引用される確かな自然のままの理由を除いて、

  彼らはこの主張の証拠は何もないと言い立てる。


現在、この意見が、

 われわれがしっかりと確立した原理により、
  さらに完全にそれに一致する体験により
否定されることを、
   私は述べるだけとする。


事実、もし静止している物体が、
 その性質によりその状態を維持するということが事実ならば、

  それが、その性質により、絶えずその状態を変えようとしているはずだ、
   と言うことは疑いなく偽でなければならない。


そして、もし運動中の物体が、
 その性質により、同じ方向にまた同じ速度でこの運動を維持するのが事実なら、

  同じ物体が、その性質により、
   絶えずその運動を変えようとするはずだ、ということは不可能である。


これらの哲学者は、真の運動の原理とそれら自身の矛盾した意見を同時に支持する際に、

 自己矛盾に陥り、さらに、それゆえに彼ら自身の仮説を破滅させてしまった。


それゆえに、それは議論の及びもつかないところへ据えられている。


即ち、われわれの原理が物体の真の性質を発見したのであり、

 しかも、反対するものはなんであろうと健全な哲学から追放されねばならない。


そして、この同じ原理は、それが内包してきたある微妙な点をわれわれに明確にしてくれる。


この原理は2つの次の定理で通常表現される。


第一は、一旦静止している物体は、
 なんらかの外的または無関係な要因により運動状態にされない限り、
  永遠に静止状態を維持するであろう。

第二は、一旦運動状態にある物体は、
 同じ方向へ、且つ同じ速度で、恒久的にそれを維持するだろう。

  また、それが何らかの外的または無関係な要因により乱されることがない限り、
   直線で一様な運動で前進するだろう。


これらの2つの定理は、
力学と呼ばれる全ての運動の科学の基礎を成す。


     1760年11月4日

 

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