自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

全ての物体は静止しているか運動している。

いかにこの区別が明らかであろうとも、

 物体がある状態(静止)にあるのか、
  それとも別の状態(運動)にあるのかどうか判定することは

   ほとんど不可能である。


私が、やすらいでテーブル上で見る新聞は実際静止しているように私には見える。


しかし、全地球は以前の手紙で説明した驚くべき速度で運動していることを
考えるとき、

 私の家、私のテーブル、この紙は絶対的に同じ速度で運ばれているに違いない。


このように、静止しているように見える全てのものは、実際に地球と同じ運動をしている。


それゆえに、われわれは2種類の静止を区別しなければならない。

一つは完全な静止、もう一つは見かけの静止である。


地球についてだけでなく、宇宙についても

 物体が同じ場所に継続的に存続するとき、

  完全な静止は起こる。


もし恒星が常に宇宙の同じ場所にあり続けるとしたら、

 たとえそれらが非常に高速で運動しているように見えても、

  それらは静止状態にあるだろう。


しかし、われわれはそれを確信できないので、

 われわれは、恒星が完全な静止状態にあるとあえて断言すべきではない。


物体が地球上で同じ状態を維持するとき、物体は見かけの静止状態にあると言われる。


これらの言葉、静止と運動は、

 事実よりもむしろ見かけを明示するために言語に取り入れられてきた、

  ということが同様に推測される。

そして、この意味で、私のテーブルは全地球と同様に静止している、
 と私は躊躇することなく断言する。


しかも、太陽と恒星は実際静止しているけれども、

 太陽と恒星は運動を、しかも非常に高速な運動をしている。


それゆえ、もしわれわれが形而上学により絶対的な静止または運動を理解するならば、

 これらの表現を奇妙で純粋な形而上学の思考に帰するべきである。


そして、地球が静止しており、太陽が運動していることを証明するために

 神聖な聖書の一節を使用することは、ある人々が行うようにばかげている。


言語は一般的な用途のために作られており、

 哲学者は自身のため特別な言語を形成する必然性の下にある。


われわれが絶対的静止を判断できないので、

 われわれが、地球と相対的に同じ状態を維持している静止状態として、

  それらの物体を考慮することはまったく自然である。


他の惑星の居住者が、

 かれらの個々の惑星と相対的に同じ条件から、
  静止という彼らの判断を作り上げるということは、

   大いにありそうなことである。

航海者たちが、かれらの船と相対的に同じ位置を保つ物体を静止していると考え、

 さらに、かれらが発見する沿岸が、彼らには運動状態にあるように見える、

  ということにわれわれは注目する。


そして、かれらの共通の表現方法の使用をとがめるようと考えるものはだれもいない。


それ故に、静止と実際のまたは絶対的な運動の間、

 さらに静止と見かけの運動、
  または、おそらくそれが運動状態にあるのかもしれないが、

   そのとき静止状態にあると考えられた物体と相対的な運動の間には、

    大きな違いがある。


その原理または運動の法則は、
主に物体の絶対的な状態、
 すなわち、それらの静止または運動、事実か絶対かを基準にする。


これらの法則を発見するためには、

 われわれはあらゆる他のものから独立し且つ単独の物体を考えることから始める。


この仮説は、それは決して起こらないけれども、

 物体自身の性質により動かされることと、
  他の物体がそれを動かす能力があることとを区別する場合、

   われわれを助けるのに実際大いに適している。


そこで、1つの物体が単独で且つ静止しているとしよう。


静止状態を維持するのか、それとも動きはじめるだろうか?と尋ねられるかもしれない。


他方よりある方へ運動させるべき理由が無いので、

 常に静止状態のままであろうということが結論される。


他の物体の存在を仮定しても、

 もしそれらが問題の物体に作用しないならば、同じことが起こるに違いない。


ゆえに、結果としてこの基本的な法則が生まれる。


一旦、物体が静止状態にあり、外部的に何もそれに作用しないとき、
それは常にその状態を維持する。

そして、もしそれが動き始めるなら、運動の原因はその外部にあるだろう。

故に、物体自身の中に、それを運動状態にする能力は何もない。


それゆえに、われわれが、静止状態にあった物体が運動し始めるのを見るとき、

 物体自身の中に、それを運動状態にする能力は何も無いので、

  われわれはこの運動が外部の力により引き起こされたのだと安心してよい。


さらに、もしそれが単独であり、且つ他の物体とのあらゆる繋がりがない場合、

 それは常に静止したままであろう。


いかにこの法則がうまく発見されようとも、

 また、いかに幾何学上の真理と並ぶ称号を与えられようとも、

  難解な研究に慣らされ、

   それが実験により否定されることを偽る者がいくらかいる。


かれらは石が付けられた糸の例を言い立てる。


石は静止状態にあるが、糸が切れるその瞬間に落下する。


糸が切れることによる作用は石を動かす能力ではないことは、彼らが言うように確かである。


それゆえに、石は、それ自身に固有であり、且つ内部的な力により落下するに違いない。

この事実は確かである。


しかし、同時に、引力(
gravity:重力)が落下の原因であり、
 且つ石の中の内部的な力ではないということは明らかである。


かれらはさらに、重力は石の性質に帰せられる内在的な力であろうと言う。


重力が薄く広がる物質によるか、
 または地球の引力(
attractionにより生み出されるということに気づくべきだろう。


最初の場合、それは確かに、石の落下の原因となる薄く広がる物質であり、

 第二は、われわれの反対者に都合の良いように見えるものである。


石が内在する力により落下すると断言されるべき妥当性はない。


その原因を内包し、
 さらにその引きつける力により石の落下を生じるのは、むしろ地球である。

つまり、もし地球が存在しなければ、もしくはその引力の力を阻まれたなら、

 かれらは、石が落下しないことを認めるのだ。


それゆえに、落下の原因は石自身の中に備わっているのではないということは確かである。


さらに、引力の支持者は、
 それ(石)に引力の力が付与されていると考えることで偽るのだが、

  薄く広がる物質内であろうと、地球の中であろうとも、

   原因は常に外的なのである。


この困難は排除すべきであり、

 わたしが定めた法則がすべての力の内に存在する

  −即ち、それがある外的な原因により運動状態になるのでない限り、
   一旦静止中の物体は常にそのままである、ということである。


たとえ
物体が直前の運動状態にあったとしても、

 もし物体が一瞬でも静止状態になったなら、

  この法則が発生しなければならない。


そして、一度静止状態を変えられると、

 何らかの外的な原因が再び運動状態にしようと干渉してこない限り、

  それは常にその状態を維持する。


この原理は全ての力学の基礎なので、

 私はあらゆる可能な正確さでそれを立証することが必要であった。

     1760年10月28日


訳注)
”外力が加わらない場合、物体は等速度運動をする”というニュートンの運動法則の第一、慣性の法則を基本として、オイラーは、物体の運動状態は観測者によって異なるという相対性を指摘し、絶対静止は判断不可能であり、さらに静止状態と等速度運動の同等性を説いている。
 ところで、オイラーが手紙を書いているこの18世紀中期といえば、既にイギリスでは産業革命が始まっている。石炭掘削時の湧水をくみ上げるための蒸気機関(ニューコメン)も発明されていた。掘削した石炭の1/3がそのために消費されるほど効率が悪かったにしても、科学の発達にはめざましいものがあったろう。
 にもかかわらず、未だ(自然)哲学界にはアリストテレスの亡霊がさまざまなところに出没していたようだ。オイラーは、それらの迷信に近い仮説に対しても一つ一つ検討し反論しているが、この後も出てくるように、深入りすればするほど泥沼に嵌って行くことを彼は知っていたので、あまり深入りせず、程ほどで切り上げている。こうしたことのために、中には手紙の半分近く、もしくは全てにページを割かねばならない難儀な哲学者たちが多くいた時代であったのだ。オイラーが憤慨している様子が、文面から実によく伝わってくる。
 話を戻すと、オイラーは運動の相対性を地上ばかりでなく、宇宙規模でも指摘する。高速で運動する恒星であっても、それが地球から莫大な距離にあった場合、それは静止して見える。船乗りの話と同じで、基準座標を設けた方には、相手が実際は静止していても運動しているように見える。つまり、ここには、(加速のない)2つ慣性座標の間には、同じ法則(方程式)が成立するというガリレイの相対性原理が暗に示されている。この手紙は方程式を一切用いない方式なので、オイラーはそこに立ち入らないが、ニュートンが規定した絶対空間を否定したのは確かである。その後、検討を進めれば、まちがいなく彼が絶対時間の否定に行き着いただろう。もしかすると、ニュートンの運動方程式に対し座標変換を施していた(ガリレイ変換)のかもしれない。絶対時間の否定(それだけではないが)は、ローレンツ変換へ、さらには1905年のアインシュタインの特殊相対性理論につながる。それが100年近く早く発見されていたとしたら、世の中はどう変わっていただろうか?と想像するのも面白いが、時代の要請がない場合、その成果はキャベンディッシュのように埋もれてしまったかもしれない。
 いづれにしても、解析学の基礎(無限解析序説、微分計算教程、微分計算教程など)を書き上げていた頃のオイラーは相当多忙であったと思われるが、2年に渡る2部構成のこの手紙の膨大さを考えると、その能力は実に驚異的である。

 

  "Go to Menu "                                        "Next  "