自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

宇宙の主要な現象を生み出し、
 且つあらゆる天空の物体の運動を発見させた力についての
一般的で、
  しかも正しい考えをあなたは持っているので、

   引力の仮説の主要な点であるこれらの力をより注意して考えることが重要である。


既に説明した法則に一致して、
それらの質量と相対的なそれらの距離の割合で、

 全ての物体は互いに他を引き合うということが、この仮説において必要条件とされる。


自然における現象の多くが説明されるのに十分な法則は、

 この仮説が真実の中に発見されること、

  そしてさまざまな物体が互いに運動させられる引力は、

   最も疑いのない事実として考えられるであろうことを立証する。


次に、われわれにはこれらの引きつける力の原因を調べることが残っている。


しかしこの調査は数学よりもむしろ形而上学(抽象的論議)の分野に属する。


それ故に、私は、
 得意げに調査の遂行について絶対的な成功の見込みがある、というつもりはない。

2つの物体がなんであろうとも、互いに引き付けられるということは確かでなので、

 何がこの引力の原因なのか?ということが問題である。


この点で哲学者は意見が分かれた。


イギリス人は、引力が自然におけるあらゆる物体の必須の特性であり、

 逆らうことのできない性質により急いで移動されるこれらの物体は、

  あたかもそれらが感情により推進させられているかのように

   互いに近づこうとする傾向があることを支持した。


他の哲学者はこの意見を不合理なものとして、また合理的な哲学の原理に反すると考える。


かれらは事実を否定しない。


かれらは、互いに向きあう物体の、
 相互の傾向の原因である
力が存在することを認めてさえいる。


しかし、かれらは、それらが物体とは関係がないということ、

 つまり、それらはエーテルやそれらの取り囲む薄く広がる物質に属し、

  さらに、ちょうど物体が流体の中に投げ込まれるのをわれわれが見るように、

   エーテルにより運動しているであろう物体はそれからさまざまな影響を受ける、

    という説を支持する。


このように、最初の説に従うと、

 引力の原因は物体自身の中に備わっており、
  それらの性質に欠くべからざるものであることになる。


さらに、後の説に従うと、それは物体の外部にあり、それらを取り巻く流体の中にある。


この場合、引力という言葉は妥当ではないだろう。


そしてわれわれはむしろ、
 物体は互いに向かって(力と共に)前進させられているといわねばならない。


しかし、その影響がおなじであるため、

 2つの物体が相互に(力と共に)前進させられようとも、また引かれようとも、

  もし、原因の性質そのものをその言葉によって決定することが偽りでないならば、

   引力という言葉は、逆らう必要がないのである。


この表現方法から結果として生じるはずの、あらゆる混乱を避けるため、

 むしろそれは、あたかもそれらが相互に互いを引き合うかのように物体は運動する、

  といわねばならない。


これは、
物体に作用する力が物体自身の中に内在するのかどうか、
 それともそれらの外にあるのかどうか
を決定するのではない。


さらに、この語り方は、こうして両派に一致するのかもしれない。


われわれが地球の表面で出会う物体に、われわれを制限してみよう。


それらが支持されない限り、それら全ては下方へ落下することは誰もがすぐに認める。


次に、この落下の真の原因について疑問が生じる。


固有の力により、それへと自然にこれらの物体を引き付けるのが地球である、とある者は言い、

物体を下方向へ(力と共に)前進するのは、
 エーテルか、または何らかの薄く広がる物質、または目に見えない物質である、
  とまたある者はという。


それ故に、その影響は、それでも両状況とも同じである。


もしそれらの間に何もないならば、

 彼らは、どのようにして離れた2つの物体が互いに作用するのかがわからないので、

  この後者の意見は、
   哲学における明確な原理を好むこれらの者に対して最も満足行くものである。


前者は、神聖にして全能なる神を頼りとし、

 神が相互の引力の力をあらゆる物体に付与したことを支持する。


たとえ、それが神の力の限界に関わる議論をするという危険を冒そうとも、

 もし、物体の性質の中に見出されることなく、引力がその力の直接の作用であるならば、

  この世界は、神が直ちに物体を互いに向かい(力と共に)前進させ、

   さらにこれが永遠の奇跡となるであろう

    というのと同じことであるということもまた確かである。


世界の創造の前に、神は互いに離れた2つの物体を作ったと仮定してみよう


即ち、全くそれらの外に存在するものは何もなく、且つそれらは静止状態にある。


一方が他方へ接近する可能性はあるだろうか?、
 またはそれらは接近する傾向(性質)をもつはずであろうか?

  一方が、離れた他方をどのように感じるのだろうか?

   どこから接近するという欲求が起こりうるのだろうか?


これらは問題を混乱させる。


しかし、もしあなたが、媒介する空間が薄く広がる物質で満たされていると仮定するなら、

 この物質がそれらを(力と共に)前進することにより、物体に作用するであろう

  ということを、われわれはすぐに理解できる。


その効果は、あたかもそれらが互いの引力の力を所有するのと同じであろう。


さて、われわれは、天体を分かつ全空間がエーテルと呼ばれる薄く広がる物質で
 満たされているということを知っている。


エーテルがそれらを運動させる作用を、
 物体の相互の引力に帰することは、もっと合理的に思われる。


けれども、理解不可能な特性に頼ることよりも、
 むしろ、その作用の仕方はわれわれにはわからないのである。


古代の哲学者は、かれらがオカルトと呼ぶ性質、

 いわば、例えば、眠りをもたらすというオカルト的性質から、
  アヘンが眠りの原因であるとするようなものにより、
   自然の現象を説明することで満足した。


これは正になにも説明していない、
 もしくは、むしろ無知を隠そうとしたといえる。


それ故に、われわれは、同様に、

 それが物体に必須の特徴として与えられている限り、

  オカルト的性質としての引力をよく考えなければならない。


しかし、全てのオカルト的性質の考えは、今や哲学からは遠ざけられているので、

 引力はこの意味で考えられるべきではないのである。


     1760年11月18日

 

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