自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

われわれが、一般的に、さらに詳細に物体の性質を調査するまで、

 外部の力により前進させられることなく、

  物体が互いに引き合う内在的な力を付与されているのかどうか、

   という形而上学の論考は、終わらせることができない。


このテーマは、数学や物理学ばかりでなく、

 あらゆる哲学の分野においても最新の重要なものであり、

  あなたはそのさらに特殊な詳細に立ち入ることを認めねばならない。


第一に、物体とは何か?と問われる。

しかしながら、この質問がいかにばかげているように見えようとも、

 何が物体であり、何が物体でないのかということの違いを無視するものはいないのだが、

  物体の性質をなす真の特性を確かめることは困難である。


デカルト学派は、それが広がりで成り立つという。

即ち、広げられるものはなんでも物体であるというのだ。


かれらは、広がりが、この場合3つの次元を持つことを明らかに理解している。

即ち、第一の次元または長さにおける広がりのみが直線だけを与える。

そして、第二の次元、長さと幅が、まだ物体ではない面のみを形成する。

ゆえに物体となるには、3つの次元がなければならず、


 さらにすべての物体は長さ、幅、奥行きまたは厚さを持たねばならない。

言い換えれば、3つの次元における広がりである。


しかし、同時に、広がりをもつ全てのものが物体なのかどうか?と問われる。


デカルト学派の定義が正しいならば、これは実例であるに違いない。


民衆が幽霊を生みだすその考えは、広がりを含む。


しかしながら、それらが物体であるということは否認される。


この考えは純粋に想像上のものである、


しかしながら、それは、

 あるものが物体でないにもかかわらず広がりをもつかもしれない

  ということを証明するのに役立つ。


一方、われわれが空間について持つ考えは、疑いなく3次元の広がりを含んでいる。


にもかかわらず、空間だけが物体ではないと認められている。


しかし、それは、物体が占有し満たす空間を備えている。


私のアパートメントに現在ある全てのもの、空気やなにもかもが、

 神聖な神により消滅させられたと仮定してみよう。


その中に物体は無いけれども、
 そこは同じ長さ、幅、高さでアパートメントの中にまだ残っているだろう。


つまり、ここに物体では無い広がりがある可能性があるのだ。


そこに物体が無くとも、そのような空間は真空と呼ばれる。


そのとき、真空は物体の無い広がりである。


大衆の迷信によると、幽霊は広がりを持つが、
 その本体または肉体がそれを望んでいると、さらに言われるだろう。


そのとき、広がりは物体を構成するのに十分ではないということが明らかになる。

 −即ち、何かがさらに必要なのである。


ゆえに、デカルト学派の定義は正確ではないという結論となる。


しかし、広がりの他に、物体を構成するためには、何がさらに必要なのか?


その答えは、流動性または運動状態になる可能性である。


と言うのは、たとえ物体が静止しているとしても、

 その状態を維持している原因が何であれ、

  もしそれに適用される力が十分であったなら、

   それを動かす可能性があるだろう。


これにより、空間は、
物体の分類から除外され、

 われわれが、物体を収容するのに役立つだけのその空間を見るかぎり、

  それが含んでいる物体がどんな動きをしようとも、

   静止したままである。


その上、運動の助けにより、物体はある場所から他の場所へ運ばれる、と言われる。


われわれは既にわかっている通り、場所と空間は変化しないままである。


しかしながら、それは地球の周りを進む運動に従うので、

 私が以上で仮定した真空と共に、

  わたしのアパートメントは疑いなく動かされるだろうし、実際そうなる。


さて、ここで、真空は物体無しで動いている。


民衆の疑惑は幽霊にも運動を与える。


そして、これ、運動させる力と広がりだけが物体の性質とはならない

 ということを証明するのに十分なのである。


あるものはさらに望んでいる。


つまり、そこには物体を構成するための物質がなければならないか、

 いやむしろ、単純な広がりまたは幽霊と実際の物体を区別するのがまさにこれであると。


さあ、ここで、
広がりが物体ではありえないということはさて置いて、

 われわれは、物質という言葉により理解されるべきことの説明を終わりにする。


次に、これらの2つの言葉の意味は全く同じであり、

 即ち、全ての物体は物質であり、且つ全ての物質は物体である。


それ故に、今日でさえ、われわれは大して進歩していない。


しかしながら、われわれは容易に、あらゆる物質を(これ以上)分割できないという、

 また結果として、全ての物体に関係する、

  一般的な特徴を発見する。


それは不可入性、つまり他の物体により貫通されることの不可能性、

 または2つの物体が同時に同じ場所を占有することの不可能性である。


事実、不可入性は、真空が物体であるために要求するものである。


それにもかかわらず、物体と認められる空気中や水中で、
 手が容易に動かせるということが、
おそらく反論されるだろう。


そのとき、これらは物体を貫通せず、
 その結果、不可入性はあらゆる物体の固有の特徴ではないのである。


しかし、あなたが水中に手を突っ込むとき、

 水の粒子はあなたの手を退けようとし、しかもあなたの手が占有する空間に水は無い、

  ということには注目する価値がある。


もし手が水を通り抜けて移動できたなら、

 その流体は手に場所を譲らないかぎり、ただ手が占有するその場所に残されるだけで、

  そのときそれは貫通可能である。


しかし、これが実際には無いことは明らかである。


物体はそのとき入り込むことはできないのである。


それ故に、物体はそれが占有する空間からあらゆる他の物体を常に排除する。


さらに、物体がある場所に入いるやいなや、

 以前にそこを占有していた物体がそこから去ることが絶対的に必要である。


これが、われわれが不可入性という言葉に添付すべき意味である。


     1760年11月21日

 

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