自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

海水がある場所で上昇するとき、

 われわれは、火にかけた容器内のミルクが膨張するように、

  それが何らかの内部的な原因から膨張すると想像すべきではない。


海の上昇はある他の場所からこちら側へ流れる水の実際の増加により生じる。


それは、満ち潮となる場所に向かって水を運んでいくので、

 海でかなり認識できる実際の流れである。


これの明確な理解をするために、

 大洋の広大な範囲で、常に水が低い場所がある一方で、
  他では高い場所があるということを

   あなたは考慮しなければならない。


即ち、前者から後者へそれが運ばれる。


水がある場所で上昇するとき、

 それは当然、そのときに低い他の場所から、それを運ぶ流れが常にある。


それゆえに、ある作家が想像するように、
 海の満ち潮の間、水の総量が大きくなり、
  引き潮のときそれが減少すると考えることは誤りである。


水全体の量またはかさは同じままである。


しかし、それは水がある領域から他の領域へ交互に移動されることによる、

 永遠の往復運動に従う。


そして、水がある場所で高くなると、当然どこか他の場所で低くなる。

その結果、それが高い場所での増加分はそれが低い場所の減少分に正確に等しい。


そのようなものが、古代の哲学者が発見しようと努力したが無駄に終わったその原因、

 つまり海の干満という現象である。


一方、偉大にしてドイツの誇るべき人、天文学者ケプラーは、

 あらゆる天体同様に、地球は実際に生きている動物であると信じ、

  その呼吸の影響として海の干満を考えた。


この哲学者によると、人間と動物は、
 正に巨大な動物の背中で餌をもらっている昆虫のようなものであった。


あなたは、私がそれほどばかげた意見にも反論をすべきだ、とはほとんど望まないだろう。


偉大なフランスの哲学者デカルトは、もっと合理的な哲学を導入しようと試みた。


そして海の干満は原理的には月の運動により統制されると述べた。


古代の人々は既にこれらの2つの現象間の関係に疑問を持っていたが、
 実に非常に重要な発見をした。


というのは、もし高潮または満ち潮の最大点が今日の昼12時に起こったとすると、
 夜の6時11分に干潮となるだろう。


また、それは深夜12時22分に上昇するだろう。

そして次の干潮は翌日の朝6時33分になるだろう。

そして続いて起こる高潮または満ち潮は正午3/4時間となるだろう。

なぜなら、1日から次の日まで同じ潮汐が3/4時間だけ遅れるからである。


そして、正確には同じことが、前日より常に3/4時間後に昇る月の運動にも起こるので、

 潮汐が月の経路に従うことは推測可能であった。


もし、どんな指定の場所でも、例えば、新月の日に高潮が午後3時に起きたとすると、

 その後、月の初日に、満ち潮が変わることなく午後3時にその高さになり、

  そして一日毎に3/4時間だけ遅れて下がるだろう、

   ということを、あなたは(心配することなく)安心していられる。


その上、正確に起こる干満が月に従うとき、時間ばかりでなく、

 変化する潮汐の強さまでも、さらに月の位置に依存するようにみえる。


それらは新月と満月の後は、どこでも強力である。


即ち、これらの期間に、水の上昇が他の時よりも大きいのである。


そして、最初と最後の4回の後、水の上昇は、満ち潮の間、最小となる。


潮汐間のこの見事な調和、さらに月の運動は、疑いなく推論するための十分な基礎となった。

すなわち、海の潮汐の主な原因は月の運動に見出された。


従って、デカルトは、月がわれわれの頭上を通過する場合、

 地球を取り巻く大気または空気に圧力をかけ、

  そのために、水を押している空気が原因となって沈められると信じた。


この場合が起きるとしたら、

 水は月があった場所で押し下がったはずであり、

  同じ影響が、12時間後に続く潮汐で生じるはずである。


しかしながら、それは起こらない。


一方、月は地球からあまりに離れているし、大気はあまりに低すぎて、

 月により押されることはない。


そして月または他の大きな物体が大気に沿って通過することを認めるとしても、

 それからなんらかの圧力を受けるには非常に離れすぎているだろうし、

  さらに、この見せ掛けの圧力が海に影響することはほとんどないだろう。


海の潮汐を説明しようとしたデカルトの試みは、それ故に失敗した。


しかし、この哲学者が非常に明快に説明した月の運動に伴うこの現象の関係は、

 更に首尾よく、彼らの研究の適用に時を費やすことを彼の後継者に可能にした。


これは次の手紙のテーマとなるだろう。


     1760年9月30日

 

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