自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

私が太陽系に関して述べてきたことに加えて、

 私はこの図(Fig4)の説明のため、いくつかの所見を伝えねばならない。


その第一は、惑星が運動する全ての広大な空間(宇宙)は真空であるか、

 むしろわれわれがエーテルと呼ぶ薄く広がる物質で満たされており、

  さらに私が既にときどき言及してきたように、

   惑星が運動する軌道に描いた線は天空において実際に存在するものではない、
    と言わねばならない。

繰り返すが、この図では表現しているが、惑星の軌道は同じ平面内にあるのではない。

しかし、もし地球が太陽の周りを描く軌道が、正確に紙上に表わされたなら、

 われわれは、地球と比べて、
  少しは上に上がったり下がったりするはずの
5つの他の惑星の軌道を想像するはずであり、

   さもなくば、各惑星の軌道は紙と交差する斜めの方向を向いており、

    平面上で描いた図に表すのは不可能なのである。


その上更に、惑星の軌道は、図が示すようにみえる円ではなく、

 むしろいくらか、あるものはそれ以上、またあるものはそれ以下の楕円である。


しかしながら、どれも円の形からそれほどひどく離れてはいない。


金星の軌道はほとんど完全な円である。

しかし他の惑星の軌道は多少縦に伸びている。


そのために、これらの惑星はあるときは太陽に近づき、またあるときは離れる。

彗星の軌道は、わたしが図にそれを示したように、

 長さがおおきく伸びているので、特に見分けることが可能である。


月や、木星や土星の衛星については、それらの軌道もほぼ円形である。

月や、木星や土星の衛星は紙の平面のように見えるけれども、

 われわれはそれらを、全く同じ方向へ運動しているように想像してはならない。


つまり、それらは同じ場所に止まることはないが、

 それらは一員となっている主要な惑星に沿って太陽の周りを運ばれている。


このように、われわれは図に表現された線を理解しなければならない。


想像が、平らな表面で正確に示すことが不可能なことを補うはずである。

あなたは今や、
 
亡きフォンテーヌ氏が彼の書において複数の(多次元の)世界を表わそうとした事を

  容易に理解することができる。

その居住者とともに地球は、ときどき1つの世界と呼ばれる。


さらに、あらゆる惑星、否、すべての衛星は平等に同じ呼称の権利をもつ
 −これらの惑星の各々は地球と同様に居住できるという可能性が高い。

その上、太陽系だけでも29の世界がある。

そして、目には見えなくとも、感知可能な星の数が何千を超えていること、

 また、望遠鏡が莫大な数(の惑星)を発見することを考えると、

  一定数の惑星が公転を行い、

   さらに、あるものは疑いなくそれらの衛星を有して周回する全恒星が太陽ならば、

    わが地球に似たほぼ無限の数の世界が存在するのである。


もし、熱と光を太陽から得ている惑星とその衛星を伴う太陽という世界の名の下に、

 それを理解しなければならないならば、

  恒星が存在するのと同じくらい多くの世界が存在するだろう。


しかし、もし世界という言葉により、

 われわれが、全ての天体、
  または(神により)すぐに創造された全ての生命と共に地球を理解するならば、

   それは1つの世界ではあるが、

    われわれが、存在する全てのものと関係があることは明らかである。


世界
という言葉は、この意味では哲学において、特に形而上学において使用される。


それは、この意味でわれわれが語るものであり、

 即ち、ただ1つの世界であるが、現在や未来と同じく過去においても、

  すべての偉大な生命の集団であるその存在は、一般的な法則に従うのである。

それ故に、哲学者が、われわれの世界が最高なのかそうでないのかを議論するとき、

 かれらは複数(多元的)世界という仮定へ進む。

そして、あるものは、

 存在するものは、存在できたものの中で最高のものであると主張する。


かれらは、
神が最上を選択したか、または最大の完成度が高度に全てに結合された、

 さらにあらゆる他のものに先立ってそれを実行した、

  個々に異なった計画が描かれたこの世界を創造しようとする設計者として神を考える。

しかし、世間に広まり、われらの地球上に拡散され、

 そして人間の邪悪さから流れ出る莫大な量の悪は重要な問題を示唆する。


即ち、これらの悪をすっかり免れた世界を創造することが可能かどうか?

わたしの意見では、形而下の物質のみを含むべき世界の計画と

 知的で自由な生命を含む別の世界の計画の間で、

  区別が注意深く行われねばならないと考える。


前者の場合、至上(最高)の選択はほんのわずかな困難を伴うだろう。


しかし、知的で自由な生命が世界の主要な部分を正すその一方で、

 何が最高なのかの決定は、永遠にわれわれの能力を超えている。


そして自由行動者(フリーエージェント)の邪悪さでさえ、

 われわれが理解できない法則で、世界の完成に貢献するかもしれない。

いかに必須のものであろうあろうとも、

 哲学者がこの区別を十分に注意深く行ってこなかったようにみえるだろう。


しかしながら、私は自身の無力さに十分に気づいているので、
 この困難な問題にこれ以上深く入らない。

     
1760年9月19日

 

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