自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

次に、目は、人間の優れた能力が生産を可能にするあらゆる機械を永久に超えている。


それ(眼)を構成するさまざまな透明な物質は、

 さまざまな屈折の原因となり得る密度の度合いばかりか、

  それらの形はさらに

   対象物の1点から進む全ての光線はさまざまな屈折を受けるけれども、

    その物体が遠くであろうと近くであろうとも、

     それが目に対して真っ直ぐであろうと斜めに置かれようとも、

      実際にただ一点に集められる、

       という法則で決定される。

これらの物質の性質や形に最小の変化が生じたならば、
 目はわれわれがこれまで賞賛してきたあらゆる利点を失うだろう。


われわれの視力の強さは正確にわれわれの必要性の程度に比例している。


あまりに遠い対象物はこの器官の手に負えないという不満を止めて、

 われわれは、反対に、神のもっとも尊い贈り物の一つとしてそれを考えるべきである。

対象物を明確に見るためには、

 ある場所から来る光線が別の場所に集光されるはずであるというだけでは十分ではない、

  ということをさらに述べねばならない。


再結合点が正確に網膜上に向かうことがさらに必要である。


もしそれ(光)がそれ(再結合点)の(距離の)不足、
 または(距離を)超えて向かったならば、像が乱れることになる。


さて、
もし、一定距離の対象物に対し、この結合点が網膜上にできれば、
 さらに離れた対象物のそれら(結合点)は眼の中で網膜に達しない部分にできるだろう。


さらに、より近い対象物のそれら(結合点)は、目の届かないところにできるだろう。


いづれの場合も、網膜上に描かれた像はぼやけるだろう。

それ故に、あらゆる人の目は、一定の距離に対して(像を)組み立てられる。


ある人々は、彼らの目に非常に近い対象物だけがはっきりと見える。


われわれはそれらを近視と呼ぶ。即ち、視野が狭いのだ。


反対に、遠視と呼ばれる人々は非常に離れた対象物だけがはっきりみえる。


そして、ほど良い距離で対象物がはっきりとみえる人々は良い眼をもつと言われる。


しかしながら、他の2つは一定量、目の球体を縮小したり膨張したりする力を持ち、

 それ故に、網膜のより近くに持ってくるか、離すかで、

  つまり、わずかに多いか少ないかの距離で、

   同様に明確に対象物を見ることができる。


これは疑いなく、目をより完全にしようとするために大いに貢献する。


そして、確かにそれは単なる偶然のせいにすることはできない。

彼らは非常に遠くとも、
 さらに非常に近くでも明確に対象物が見えるという条件下にあるので、

  良い目を持つこれらの人々はそれらの構造からもっとも恩恵を得る。


しかしこれはある限界を超えることは決してない。


おそらく、1インチの距離で、

 さらに結果として、よりいっそう小さな距離で見ることができる者はいないということである。


もしあなたが自分の目を閉じて1枚の手紙を書こうと思うならば、
 非常に混乱してしまい文字を見るだろう。


これが、私がそのような高い重要性のテーマを敢えて申し出た全てである。*

1760年8月21日

編注)* オイラーによって非常にうまく指摘された人間の目の謎は、彼が想像する以上に、いまだに大きい。かれは、水晶のようなレンズが中心から周辺へと密度が小さくなること、それ(レンズ)はうまく同心円のラミナ(薄膜)で作られること、さらに、個々のこれらのラミナは、厚みの変わる微小で透明な繊維から成ること、その上、像の中心線に対し最も美しい対象性をもって整列されていること、といった事実を知らなかった。

下等な動物のあるものでは、水晶のようなレンズの構造が人間よりももっと完全に発揮され、さらに、密度の変化とその繊維組織の分布の両方に関して、もっとも注目すべき現象をあらわす。

ある動物の場合、その部分の複雑さと、かれらがその生存のさまざまな目的のために適応した優れた能力は、あらゆる説明を超越し、全人類の知恵を混乱させる。

 

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