自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

私はいま、疑いなく
 人間の精神が熟考可能な偉大な自然の作用の一つである視覚
  という現象を
説明することができる。


われわれはこのテーマに関する完全な知識を全く欠いているが、

 われわれがそれについて強く知りたいそのわずかなものは、

  われわれに神の力と知識を納得させるために十分以上である。


われわれは、最も賞賛すべき天才も決して推測できなかった

 目の構造の中に完全性を発見する。

私は目の解剖学的な解説をするにあたり、あなたを待たせてはおかない。


外観上の膜aAb(Fig26)は透明であり、目の角膜と呼ばれる、

 ということは注目するに十分足る。


この後ろには、内側に、もう一つ、
 われわれが虹彩と呼ぶ
  丸く色彩の付いたa
m、bmなる膜があり、
   穴m mの中心にあるのが、
    われわれには黒い色に見える瞳孔と呼ばれるものである。


われわれはこの穴の後ろに、
 小さな天日レンズの形にどこか似た物体である水晶の体液bBCaを見出す。


それは完全に透明であり、カプセル(膜嚢)と呼ばれる薄い膜で覆われている。


水晶の体液の後ろには、
 眼の空洞がビトリアス体液(硝子体)と呼ばれる透明なゼリー状の物で満たされている。


薄い膜aAbの間の前面の空間と水晶のabは水のような液体を含み、
 アクエアス体液(房水)と呼ばれる。

ここで、目の中に入る光線が通過しなければならない4つの透明な物質がある。


1つは前面の膜または角膜、
 2つはAとBの間のアクエアス体液(房水)、
  3つは水晶bBCa、
   4つはビトリアス体液(硝子体)。


これらの4つの物質は密度が異なる。


そしてあるものからまたあるものへと通過する光線は特別な屈折を受ける。


そしてそれらはうまく整えられ、
 どんな物体の位置から来る光線も目の中で1点に集められ、
  そして、それらは1つの像を表わす。

EGFの眼の底またはレティナ(網膜)は、像の受容に適した白っぽい組織を供えている。


それは、物体の像が白い背景に表現されるというものであることを、

 あなたは喜んで思い出すだろう。


同じ原理に倣い、光線が目に入るあらゆる対象物は網膜に描かれた物として見出される。


牛の目をとり、網膜に覆われた外側の部分をはずすと、

 あなたは非常に正確にそこに着色された全対象物を見るので、

  それを超えるまたはそのような完成度に達する芸術家さえ居ないと思うだろう。


そして何であれ、ある対象物を見るためには、対象物が常に網膜上に描写されねばならない。


そして、不幸にも、目のどこか一部でも傷つけられるか、
 またはそれらの透明さを失うとき、人は盲目になる。

しかし、対象物をわれわれが見るためには、
 それらの像が網膜上に描写されるだけでは十分ではない。


たとえこれが生じても、あるものは盲目である。


その結果、われわれは、

 網膜に描写された像は、結局視覚の直接の対象ではなく、

  精神の知覚力が何か他の方法で伝達されることを知る。


網膜は、脳から来る膨大な神経と連絡する、
 最も薄く広い神経の網状化された組織の構造をしており、
  
Oで目に入り、そして視神経と呼ばれる。


網膜のこれらの小さな神経は、目の底(眼底)で像を形成する光線により攪拌される。


そしてこの攪拌は脳へと視神経により送られる。

疑いなくここで精神の知覚が作られる。


しかし、最も巧みな解剖学者もそれらの源へとこれらの神経をたどることができない。


−肉体と精神の結合はますます霧に包まれたままなのである。

 

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