自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

あなたは、視覚だけでは、対象物の実際の大きさに関しても距離に関しても

 われわれには何も見出せない、ということを正に見てきた。


われわれが見て想像すること全ては、

 いかなる対象物の距離に関してであろうと大きさに関してであろうと、
  判断の結果である。


感覚がわれわれに示すことと、

 われわれが頻繁に思い違いをすることに判断が加わることとは、

  われわれは慎重に区別しなければならない。


感覚の正確さに対して激しく攻撃し、

 そして、それゆえに、あらゆる人間の知識の不確実さを示そうとした多くの哲学者は、
  判断に伴うわれわれの感覚の正確な表現を混同した。


これは推論(論証)に関する彼らの方法である。


それ(太陽)は永久に巨大であるが、われわれは木のお皿よりも大きくない太陽を知っている。


それゆえに見るという感覚(視覚)はわれわれを惑わす。

その結果、全てのわれわれの感覚はわれわれを惑わす。

少なくとも、われわれはそれらに頼ることはできない。


ゆえに、われわれが感覚により手に入れるあらゆる知識は、不確実であり、おそらく偽である。

われわれは、ゆえに、なにも知らない。


そのようなものが、
 あまりに見事に無価値なかれらの巧妙さを自慢するこれらの懐疑論者の結論である。


言うほど簡単なものは何もないけれども、つまりすべてのものは不確実なのである。


そして、最大の愚か者がこの崇高な哲学におけるりっぱな名士となるかもしれない。


しかし、視覚がわれわれに太陽をはくろう製の皿よりも
 大きくないように示すということは絶対的に偽である。


それは、その大きさに関するなにものをも決定しない。

それはわれわれを惑わすわれわれの判断のみである。


対象物が、しかしながら、大して遠くないとき、
 われわれはそれらの寸法と距離をかなりよい正確さで判断できる。


そして、われわれがこれらの同じ対象物をみる鮮明さに加えられる別の感覚が、

 われわれの判断を十分確かなものにする。


そこで、われわれは対象物の距離という概念をもつとすぐに、

 それ(概念)はその距離に依存するということを知りながら、

  われわれは自身で、
   さらにその実際の大きさのそれ(対象物の距離)を(頭の中で)作り上げる。


その結果、われわれがあるべき対象物を判断する距離が大きければ大きいほど、
 より大きいとわれわれは推論する。


そして逆に、それが近ければ近いほどわれわれは推論し、
 われわれはそれがより小さいと考える。


判断の中止が距離を考慮にいれることを妨げるとき、
 当然だが、われわれは頻繁にある物体を別のはるかに大きい物体と見間違える。


われわれの近くに置かれた小さな対象物と同じ角度(視覚)の下では、

 非常に巨大な物体は非常に遠くに見られるだろう

  ということが理由である。


誰にでも良く知られ、学者の間でも多くの議論のきっかけを与えた、
 現在では説明することがまったく簡単な、もう一つの現象がある。


満月は、見かけの視角の大きさは同じだが、

 月の出のとき、月が水平線上の相当な高さにいるときより、

  誰の目にも遥かに大きく見える。


太陽もまた、出と入りのとき、誰の目にも昼よりも一層大きくみえる。


そのとき、非常に普遍的であり且つ非常に偽であるこの判断の根拠は何か?


それは疑いなく、それらが相当な高さにあるときより、

 水平線上ではわれわれからはるかに離れているはずだと、

  われわれが水平線上の太陽と月を判断するからである。

しかし、どのようにしてわれわれがそのような判断をするようになるのか?


一般的な答えは、太陽と月が水平線にあるとき、

 われわれはそれらとわれわれの間に、

  それらの距離を増大するようにみえる巨大で多くの対象物を知覚する、

   ということである。


ところが、太陽と月がかなりの高さへ昇るとき、
 われわれはそれらとわれわれの間に知覚するものは何もない。


それゆえに、それらがより近いと結論する。


この説明が満足いくものかどうか私は知らない。


大きさが正確に同じであろうとも、

 空のアパートメントがすっかり設備を備えたそれよりも大きく見える

  ということには異論があるだろう。


それゆえに、さまざまな仲介物のある対象物は、

 実際の場合よりも、今ひとつ距離が大きく離れている、

  と考えるように、常にわれわれを導くわけではない。


私は心の中で、次の解決がより自然にみなされ、よりいっそう認められるだろう、と信じる。

A(挿絵?T.図13)が地球を、
 地球が囲まれている大気または空気を点線の円で表わすとしよう。


A
点に居るあなた自身を想像しよう。


もし月が水平線にあるならば、
 光線は線
BAの方向であなたに到達するだろう。


しかし、月が非常に高い場合、光線は線
CAを降下する。


最初の場合、光線は大きな空間
BAを通過し、

 第二の場合、小さな空間CAを通過する。


そこで、透明な媒体を通過するその光線は、
 経路長に比例してその作用を減少させるということを、あなたは喜んで思い出すだろう。


そのとき、大気または空気は透明な媒体であるため、

 光線BAは通過時に光線CAよりもその作用をよりいっそう失うのである。


ゆえに、一般的には、
 あらゆる天空の物体はすっかり上がって上昇したときより、水平線では輝きをかなり失う。


太陽が水平線にあるとき、われわれは実に太陽を直接見ることさえ可能である。


しかし、一旦太陽が一定の高さに達したら、目はその輝きにより収縮される。

わたしはこれから、月もまた上昇したときよりも
 水平線において輝きを失うように見えると結論する。*

編注)* この現象のより完全な説明は、スミス博士の光学、1巻、63ページに見出される。

半球図よりも小さいため、空の外観図がBFED
(Fig32)と同じであることをかれは示す。

mnの月は、opと向かい合う角oOpに等しい、角mOnに向かい合うと考えることで、opはかなりの距離があると考えられ、その結果、月はmnよりopの方がさらに大きく見えるはずだと結論する。

星が水平線と天頂の間の半分にあると思われるとき、スミス博士はその真の高度が23°であることを発見した。そして、この原理に基づき、かれは次のテーブルを作成した。






さて、私が前に少し言ったこと、つまり絵画の効果の話で、

 その光が弱められるとき、
  同じ対象物がわれわれにはもっと遠くに見えるということを、

   あなたは思い出すだろう。


そのとき、水平線にある月は上昇点のどこよりももっと遠くに見えるに違いない。


結果は明らかである。


われわれは月の距離を水平線にあるときよりも大きいと判断するので、
 われわれはその結果、月の大きさをより大きいと判断するはずである。


そして、それらの見かけの距離がより大きいので、

 一般的には、あらゆる星が水平線の近くにあるとき、われわれには大きく見えるのである。

1760年8月3日

 


訳注:今日でも水平線にある月または太陽が大きく見える理由は、オイラーの指摘する内容とほぼ同じで錯覚とされている。実際、水平線上でも天頂でも太陽の視角は同じである(0.533°)。とすると、単なる錯覚ということになるのだが、実は色彩心理という分野があり色の感じ方が研究されている。それによると、赤は膨張色であり、前進色であるということが結論される。(但し、背景色との関係や光の強弱によっても変わりうるし、全ての人が同じように感じるわけではないらしいが・・・)ならば、日の出、日の入りのとき、太陽や月が赤みを帯びるので、それ以外のときより若干大きく感じることに加え、オイラーの指摘する経路に多くの物体が存在することによる効果も加わって、さらに大きく見えることは十分有り得るだろう

 

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