自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

あなたは、対象物の表面の微小粒子が撹乱され、

 さらに微小粒子の振動の周波数が色を決定することによる

  対象物の可視の理由が非常に高速な振動運動であることをいま正に知った。

これら(対象物の表面)の粒子が、

 発光する物体内と同様に固有の力により攪拌されるのかどうか、

  それとも、不透明な物体内のようにそれらが照射されることにより、

   照明または無関係な光からその攪拌を受けるのかどうか、

    ということは同じことである。


楽器の弦の振動の周波数がその太さと張力の度合いに依存するように、

 振動の周波数または速度はこれらの粒子の総数およびそれらの弾力による。


このように、植物の葉が元気な限り緑色を保つように、

 物体の粒子が同じ弾力をもつ限り、それらは同じ色を表わす。


だが、それら(植物の葉)が乾燥し始めると、
 そのとき発生する弾力の差異が、さらにさまざまな色を生み出す。


これは、私が既に議論したテーマである。


次にわたしは、なぜ日中、天が我々には青色で見えるのか?の説明を続ける。

この現象を庶民の目で観察すると、
 画家が天上に空を描くように、
  どうもわれわれは巨大な青色の丸天井によって囲まれているように見えるらしい。


わたしが、この偏見に関してあなたの迷いを覚まさせる理由はなにもない。

小量の反射であっても、
 星が非常に多くの光る飾りびょうのように貼り付けられている天は、

  青色の丸天井ではないことを、あなたが理解するのには十分である。


あなたは、

 星が我々からは想像もつかない距離にある巨大な物体であり、

  ほとんど無の、またはエーテルと呼ばれる
   薄く広がる物質によってのみ満たされている空間中を自由に運動していることを、

    すっかり納得させられる。


そして、この現象が、
 全く透明ではない我々の大気によるものであることを、

  わたしはあなたに示すだろう。

地球表面の上へますます高く上昇することが可能なら、

 それが呼吸を助けることを止めるまで、

  空気は次第にますます希薄になるだろう。


そして、ついには全く呼吸を止めるだろう。


そのときわれわれは純粋なエーテルの領域に到達するはずだ。


従って、われわれが山に登るのに比例して、気圧計の中の水銀は下がり続ける。


なぜなら大気は一層軽くなるからだ。


その上、天の青空の色がより微かになっていくことに気づくだろう。


そしてそれが純粋なエーテル内に備わっていたなら、それは全く見えないだろう。


上方をみると、われわれはまったく何もみえないはずであり、
 天は夜のように暗黒に見えるだろう。


つまり、われわれに届く光線がないのであり、あらゆるものが黒の外見をまとうのである。

なぜ天は青く見えるのか?という問いに、良い理由がある。(*1)


エーテルがそうであるように、空気が完全に透明な媒体であったなら、この現象は存在しない。


その場合、われわれは他の光線ではなく星の光線を受けるはずだ。


しかし、日光の輝きがあまりに強いので、弱い星の光はそれによって吸収されてしまう。


あなたは、日中にかなり離れた細ろうそくの炎を知覚することができない。


しかし、夜では同じ炎がはるかに離れても非常に輝いてみえる。


これは、われわれが、

 空気の非透明性の内に、天の青色の原因を探さねばならない、

  ということを証明している。

空気は大量の小さな粒子を詰め込まれている。


それは、完全に透明ではないが、

 太陽光線により照射されることで振動運動をそれらから受け、

  これらの粒子に固有の新たな光線を生み出す。


さもなくば、それらは不透明であり、且つ照らされることにより我々に見えるようになる。

さて、これらの粒子の色は青である。

そしてこれは現象を説明する。

空気は小さな青い粒子を大量に含む。


さもなくば、その微小粒子は青っぽいが、
 色の粒子は非常に繊細であり、

  莫大な質量の空気の中でのみわれわれに知覚可能となる、といわれる。


このように、室内では、われわれはこの青の他に知覚できるものがない。


しかし、全大気の青っぽい光線はすぐに我々の眼を貫き、

 個々の色がどんなに細かくとも、
  それらの全体は非常に深い色を生じるかもしれない。

これはあなたがよく知っている別の現象によって確認された。

もしあなたが適度に離れて森をみるならば、それはほとんど緑に見える。


しかし、あなたの距離が増加するのに比例して、
 青っぽい色合いをもたらし、これは次第により深い色となる。


マルデブルグから見られるであろうハーツの山の森は、
 それゆえ青に見えるが、ハルバーシュタットから見たならば、森は緑である。


マルデブルグとこれらの山の間の多量の空気がその原因である。


しかしながら、空気の青っぽい粒子がいかに微かでまれであろうとも、

 その間にはそのような莫大な量の空気がある。


すぐに目に入る光線は、即ち、それらはかなり深い青を表わす。


空気が白っぽい色の多大な量の不透明な物質の粒子を混ぜられるとき、

 われわれは霧の中で同じ現象に気づく。


編注)*     
もっとも純粋な春の水が白いもので覆われた巨大な貯蔵庫の中にあるとき、その色合いは変わることのない青い色である。ゆえに、スイスの氷河内の多量の透明な氷の青い色が、さらに、ジュネーブの湖の外に流れ出すローヌの澄んだ青色が生まれる。


小さな距離で調べるだけでは、あなたはほとんど霧を知覚できない。


しかし、かなりの距離になると、白っぽい色がかなり知覚できるようになる。


その程度になると、それを透かして見ることは不可能である。


海水は一定の深さまで緑に見える。


しかし、あなたが少量手に取ると、

 ほぼその瞬間、ガラスが含まれるかのように、それは十分に透明であり、

  わかるほどの色はほとんどない。


しかし、広大な範囲では、
 あなたがその底の方を見るとき、
  集められた非常に多くの緑っぽい光線が深い色を生み出す。

1760年6月27日


訳注(1) 空が青いのはなぜか?
 光は太陽から地球へ常に向かっている。光が気体に衝突するとき、光の進行方向と垂直な方向に放射される光を散乱光という。この散乱光はある確率に支配され、強度は空気を構成する窒素や酸素の原子、分子からの2次光の総和となる。詳細は、”波動としての光の不思議”の章を見ていただくとして、大体の仕組みを述べよう。地球の空気はおよそ7割が窒素、2割が酸素であると考えてよい。その原子の共鳴波長は200nm近辺である。その原子からの2次光放射の確率式から強度と波長の関係を調べると、青の波長は赤のそれに比べて10倍以上放射確率が高いことがわかる。(式をグラフ化するとわかる。)よって、太陽光が大気圏に突入すると、早速青の成分が進行方向と垂直方向、つまり大気中に放射され、それが大気中の水蒸気で反射、屈折して地上へ向かう。
その結果、太陽が上にあるときに、われわれが空を向くと空の青色の光線が眼に入り、太陽を見るときは、青成分が減り、黄色みがかった白い太陽の光線が眼に入る。(太陽光の青、緑、黄の強度は同じぐらいであるから、青や緑の成分が減ると、当然黄色っぽくなる。)
では、太陽が水平線にあるときはどうか? 日の入、日の出のときは、第35章、Fig13に示されていたように光の経路が天頂に有るときに比べて非常に長くなる。つまり、青、緑の成分がその経路で大きく失われ、黄色や赤成分が目立ってくる。これが真っ赤な太陽の理由である。同時に赤成分の強い光が放射されてくるので、それを受ける水蒸気(雲、大気)は赤を反射、屈折する。
 赤い空の上方はまだ青い部分が残っており、上に行くほど宇宙の暗黒色となっていく。では試しに、太陽に向かっていけば、赤と青の境界を見ることはできるだろうか?残念ながら、進めば進むほど、青い色が支配的になるだけである。
 オイラーは、距離が長くなった場合、図13を利用して光が弱まることを説明した。大筋は今日でもそれでよく、更に言うならば、光の強度だけではなく、成分に大きな影響が出るのだということを記憶しておきたい。

ところで、反射、屈折等の言葉が出てきたが、波動論、量子光学と進んだ今日においても、対象物に当たった光がそのまま反射したり、屈折、透過すると思っている人は多いのではなかろうか?(サラリーマンや残念なことに理工学部出身者もそうであった。) 18世紀のオイラーはそれを光により微粒子が攪拌され、振動運動を全空間に存在するエーテルに伝達して、眼に達し、それを変換して脳へ送ると解釈した。当時はそのような進んだ考え方をする人は他に居なかったわけだが、今日の光と電気双極子の振動による波動論的解釈は、オイラーの解釈とどこかイメージが似ているのである。
よって、われわれが見ているものの多くは、光がほぼそのまま反射、屈折、透過したものだと考えるのは大きな間違いであることを指摘しておく。

 

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