自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

光線がある透明な媒体から別のものへ斜めに通過するとき、
 それが屈折と呼ばれる屈曲をうけること、
  そして屈折は入射の斜角と媒体の密度に依ることをあなたは知った。


私は今、色の多様性の原因、さらに屈折の小さな変化について、
 あなたに注意するよう求めねばならない。


これはその環境から疑いなく生じる、


即ち、さまざまな色の感覚をわれわれに引き起こす光線は、
 同時に等しくない振動数で振動するのであり、


さらに、それらは、鋭い音または単調な音がなすのと同じ方法で、
 それら自身により異なるのである。

このようにして、赤の光線が最小の屈曲または屈折を受けることは観察可能である。


その後に、橙、黄、緑、青、紫が来る。


それ故に、入射の斜角と媒体の密度は同じであることが常にわかっていれば、

 紫色の光線は最大の屈折を受けることがわかる。


故に、さまざまな色の光線が同じ屈折性を持っているわけではなく、
 赤は最小で紫は最大の屈折性をもつと結論される。

もしPC(Fig10)が、
 たとえば、入射角
PCEで空気からガラスへ通過する光線ならば、
  屈折光線は鉛直線CFに近い。


そして、もし光線が赤ならば、
 屈折光線は
CRed(赤)の方向になるだろう。


もしそれが橙ならば、屈折光線は
COrange(橙)となるだろう。


全てのこれらの光線は、垂直線
CFへ向かい、
 
PCの延長線CQから離れる。


しかし、赤の光線は
CQから最小で離れるか、
 または最小の屈折を受ける、


さらに、紫の線は
CQから最大でそれて、最大の屈折を受ける。

さて、もしPCが太陽光線なら、それはすぐに、図に示した全ての色の光線を生み出す。


そしてもし白い紙片がそれらを受けるために置かれたなら、
 あなたは全てのこれらの色を実際に見るだろう。


ゆえに、太陽の全光線が単純な色を一度に含んだものであると認められる。


もし
PCが白の光線ならば、もしくは白い物体から進んでくるならば、同じことが起こる。


われわれは全ての色が屈折によりそれから生み出されることを知るのである。


そこから、われわれが以前に見たように、白が全ての単純な色の集合であることが結論される。


事実、われわれは、全てのこれらの色の付いた光線を1点に集めさえすればよく、
 その結果、白色が生じるだろう。

このように、われわれは単純な色とは何かを発見する。


屈折は明白にそれらを確定する。


それが現れる順序に従うと、それらはこのようになる。


即ち、1.赤、2.橙、3.黄、4.緑、5.青、6.紫


しかし、6つだけあると考えてはいけない。


というのは、色の相違は、光線がその中で一斉に行う振動数から、
 もしくは、むしろそれらを生み出す波動から生じるので、
  中間の(振動)数が均等に単純な色を与えることは明らかである。


しかし、われわれはこれらの色を作ることにより名前を付けようとする。


つまり、黄と緑の間で、われわれは明らかに中間色を感知するのだが、
 われわれは個々の名前をもたない。

同じ法則にしたがうと、見ることのできる色は虹の中に生み出されている。


空気の至る所に浮遊する水滴を通過する太陽光線は、
 それらにより反射され、且つ屈折され、そして屈折が単純な色にそれらを分解する。


あなたは、これらの色が虹(赤、橙、黄、緑、青、紫)の同じ法則に各々従うということに

 疑いなく気が付くに違いない。


しかしわれわれはその中に全ての、
 ある色と別の色の微妙な色合い部分のような中間色さえも発見する。


そして、われわれがこれらの度合いを区別するためにさらに名前をつけたなら、


われわれは一方の端から他方の端までそれらの多くを発見するに違いない。


より多くの言語により、おそらく、実際に他の国で、多数のさまざまな色が数えられるだろう。


また一方で、
もし、たとえばそれが、
 我々が橙と呼ぶものを表現するための言葉を必要とするなら、
  あまり多すぎると数えることができなくなるかもしれない。


編注)* 光のビームが非常に弱い頃、ウォルストン博士が16、23、36、25の比率で4つの色、即ち赤、黄緑、青、紫を発見した。しかしながら、これらの比率は、入射光線の入射角やプリズムを形成する屈折物体の性質とともに変化する。色の光線の分離により色を生じようとするある物体の力は、分散能(率)と呼ばれる。エジンバラ エンサイクロペディア、技術、光学、15巻、485と541ページ。


これらの内に、我々が赤の端で感知するパープル(紫がかった色)を加える、
 が、他は赤と同じ名前と理解する。


私がここで行ったように、
 これらの色は1オクターブの音と比較されても良い。


なぜなら、音の関係と同様に色の関係は数で表現されてもよいからだ。


すると以下のようにも表わせる。

いま少し紫(バイオレット)を変えることによって、

 あなたはあらたなパープルと言い換えても良いし、

  ちょうど音から音へ発生するように、
   
Bを超えた場合、あなたはCのオクターブ上のcと言い換えても良い。

そして、音楽では、われわれはこれらの2つの音に同じ名前を与えるので、

 それらの類似のために、同じことが色において起きる。


つまり、1オクターブの音程を過ぎて発生した後に、同じ名前をまた持ってくる。


または、もし良ければ、

 一方の振動数が正確に他方の2倍である2つの音に似た2つの色は、

  同じ名前を通過し、同じ名前をもつ。

この原理で、カステル神父は、フランスで、色の音楽という類のものを考案した。


かれは全ての鍵盤が一定の色の材料で並べられたハープシコードを組み上げた。


そしてかれは、もし巧みに触れられたなら、
 このハープシコードがもっとも愉快な光景を目に見せてくれるだろう、と偽った。


かれはそれに“目に見えるハープシコード”という名前を与えた、


そして、あなたは疑いなくその噂話を聞いたことだろう。


編注)* カステロ神父の“目に見えるハープシコード”の説明は、ブリュスター博士の万華鏡の報告書に見られる。


私としては、音楽が耳のためのものであるように、
 絵画はむしろ目のためのものであるように思われる


そして、異なった色の付いた個々の布の切れ端の表現が非常に心地よいのかどうか、
 私は大いに疑問におもう。

1760年6月27日

 

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