自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

色の真の性質について広がった無知は、

 このテーマに関するばかげた意見を支持することで目立とうとした個々の哲学者の間に

  頻繁に且つ激しい議論を引き起こした。


色が物体そのものの中に存在するという仮説は、
 かれらにはあまりに悪趣味で、常に高所から見下ろす哲学者には、
  ほとんどない価値のないもののように思えた。


なぜなら、道化者(愚かなことをするもの)は
 ある物体が赤であり、他は青であり、また他のものは緑であると想像するので、

  その哲学者はその逆を支持しても、それ以上にうまく名を揚げることができなかった。


故に、色の中に真理は何もなく、且つそれらに関わる物体の中にも何もないとかれは断言する。

ニュートン説を奉ずるものたち(ニュートン主義者)は、
 光線のみで色が構成されるとして、(かれらは)赤、黄、緑、青、藍色、紫を区別する。


そしてかれらは、それがその種の光線を反射するとき、
 物体はしかじかの色に見えると我々に語る。


この見解が不合理に思えたあるものは、色は我々自身の中に存在すると偽る。


これは無知を隠すための見事な方法である。


さもないと、一般大衆は、
 学者は色の性質を彼ら自身よりも大して知らないんだと信じたかもしれない。


しかし、あなたは、これらの紛らわしい手の込んだやり方は
 つまらないあらさがしであることをすぐに理解するだろう。


あらゆる単純な色は(混合色と区別するため)
 一定の時間に作用する一定の振動数に依存するのである。


それゆえに、1秒間に生じるこの振動数が、
 虹に表現される単色の赤色、黄色、緑色、青色、紫色を決定する。

そのとき、もし、ある物体の表面の粒子が、
 そのような方法、即ち攪拌されている中に配列されているならば、
  それらは例えば赤色を生み出すのに必要な多くの振動を1秒間に生じる。


まさに道化者がするように、私はそのような物体を赤と呼ぼう。


そして私は他の表現方法をさがす理由はなにもない。


そして、1秒間にそのような振動数を生じる光線は、
 赤の光線と命名されるに値する妥当性がある。


そして最後に、視覚の神経はこれらの同じ光線に影響され、
 且つ多くの刺激をそれらから1秒間に、感覚的に均等に受けるとき、
  われわれは赤色の感覚を受けるのである。


ここで全てのことが明らかとなる。


そしてわたしは、実際には何の意味もない無知や不可思議な側面を導く必要性がないことを知る。

音と光の間の類似はかなり完全なので、それは微小な環境内でも保持する。


わたしが、ある音の共鳴のみにより振動内に起こされる楽器の弦の現象を提示したとき、

 問題の弦のユニゾン(同音)を与えるあるものは、それを揺り動かすのに最適であること、

  またある音はそれ(問題の弦)と調和する比率のときだけそれに影響することを、

   あなたは喜んで思い出すだろう。


それは正確には光と色の関係と同等なのである。


つまり、さまざまな色はさまざまな楽音に相当する。

私の主張を完全に強固にするこの現象を示すために、暗い部屋を準備しよう。


雨戸の一つに小さな穴を開ける。

 (屋外で)ある距離を置いて、決まった色の物体、例えば赤い布の切れ端を置く。


よってそれ(赤い布の切れ端)が照らされるとき、
 その光線は穴から暗くした部屋の中に入る。


このようにして、他の全ての光が除かれるので、部屋の中に送出された光線は赤であろう。


そしてもしあなたが、部屋の内側で、その穴、同じ色の布切れの向かいに居るなら、

 それは完全に照らされて、さらにその赤い色は非常に光り輝くようにみえる。


しかし、もしあなたがその場所に緑の布切れを代わりに置いたなら、
 それはあいまいなままとなり、あなたがその色のものを見るのはほとんど困難だろう。


もしあなたが、屋外で穴の前に緑の布切れを置いたなら、
 小部屋の中が最初の光線により完全に照らされ、その緑の色は非常に強烈に見えるだろう。


同じことが全ての他の色についてもうまく適用される。


そして、これ以上、納得させるような私の仮説の真理性の証明が要求される
とはわたしは思わない。

決まった色の物体を照らすためには、
 その上に降り注ぐ光線が同じ色を持つ必要性があるということを、

  われわれは学ぶ。


というのは、異なった色のそれら(光線)はその物体の粒子を攪拌する能力がないのである。


これは良く知られた実験によりさらに確認されている。


ワインのアルコールは部屋で火をつけられるとき、

 ワインのアルコールの炎は青いこと、また青い光線のみ生じること、
  また部屋にいる全ての人が青白く見えることを、あなたは知っている。

  −彼らの顔は、たとえ非常に濃く化粧されていたとしても、死者の顔つきとなる。


その理由は明らかである。


青い光線は、顔の赤い色に運動を引き起こし、
 さらに運動状態になる能力がないので、あなたは弱く青みを帯びた色のみを顔にみる。


しかしもし仲間の一人が青の衣装を着ていたなら、そのような衣装は非常に輝いて見えるだろう。


さて、太陽の光線、細ろうそくの光線、または、普通のろうそくの光線は
 ほぼ均等に全ての物体を照らす。


そこから、たとえ太陽が自身黄色っぽく見えようとも、
 太陽の光線が同時に全ての色を含むということが結論される。

事実、あなたが暗室にほぼ同量の全ての単色の光線、赤、黄、緑、青、紫をいれて、
 それらを混ぜると、それらは白っぽい色を表す。


同じ実験が同様の方法で着色されたさまざまな粉末でなされた。


その結果、互いに混合されることで、白っぽい色が結果としてできあがった。


ゆえに、白は単色ではなく、それはむしろ全ての単色の混合である、と結論された。


よって、われわれは、白は全色の混合でできることを知っている。


黒については、単色というのは正確ではない。

その粒子が振動運動を受けることができない、
 またはそれが光線を生じることができないとき、あらゆる物体は黒である。


それゆえに、光線の要求がその色の感覚を生み出す。


そして、その表面でいかなる振動運動も受けることのない物体の中に、
 粒子が発見されればされるほど、
それはいっそう黒っぽくあいまいに見えるのである。

1760年6月15日

 

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