自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

いま正にあなたの疑問に提示してきたことに続いて、

 あなたは、不透明な物体が照明からのみ、
  
発光する物体の粒子の攪拌と同じその粒子内の攪拌を受けることができること、

   さらにそれらを可視化する光線を生み出す特性を得ることに

    もはや驚かないだろう。


こうして、不透明な物体の可視性に関する私の説明への大きな反論はうまく取り除かれる。


一方、光線の反射を発見した他の理論は、

 あなたが既知の現象により直接的に応用しようとするのにあわせて
  さらに大きくなる困難に出会うはずである。
 


そのとき、われわれが見るあらゆる物体の表面の粒子が

 振動における弦のそれと同じ攪拌を受けることは1つの確立された真理であるが、

  それらの振動はものすごく急速である。


というのは、
 この攪拌が物体内での自身の発光のように固有の力の影響であるのか、

  それとも、それが物体に降り注ぐ光線により、

   即ち、不透明な物体の場合がそうであるように照明により生み出されるのかどうか、
    ということである。


その上、不透明な物体である月が太陽の光線を反射するということ、

 また普通に理解されているように、
  この反射光により月がわれわれに可視化されるということは偽である。


しかし、月の表面に降り注ぐ太陽の光線は、
 その粒子内に月の光線を発生する振動を起こす。


そして、これらはわれわれの眼に入り、そこにその像を描画する。


それは他の惑星や全ての不透明な物体と同じである。


照らされるとき、不透明な物体のこの攪拌はその原因である照明の間のみ存続する。


そして不透明な物体が照らされなくなるとすぐに見えなくなる。

しかし、一旦弾かれた弦が頻繁に振動を続けることをわれわれが知っているように、
一旦不透明な物体の粒子に影響を与えたこの攪拌は若干の持続時間も持つ可能性はない。

けれども新たな影響はもはや起きないのではないか?


私は敢えてこの事実を否定するつもりはない。


一旦照らされると、
 たとえ暗い部屋に運ばれてもある時間の間その光を維持するという、

  マルグラフ氏があなたに提示したそれらの物質の中に、

   われわれがその実例を持っているとさえ、わたしは信じてさえいる。


しかしながら、これはそれを発生させた照明とともに
 あらゆる物体を不可視にする微小な粒子の振動という特別な場合である。


だが、このように全く自己矛盾のないこの説明は、さらにより重要な研究へと私を導く。

われわれが、
 物体自身の変化により、不透明な物体の粒子間の無数の相違を発見することは、
  おそらく間違いない。


あるものはより振動の影響を受けやすく、
 またあるものは少なく、そしてまたあるものは結局そのように何もない。


物体におけるこの相違は非常に明らかに発生する。


ある粒子は容易にそれに衝突する光線の影響を受け、
 われわれにはきらきら輝くように見える。

また、反対にほとんど何の攪拌も生じないものは、光を発するようには見えない。


均等に照らされたさまざまな物体の間で、
 あなたはあるものは他のものよりももっときらきら輝いているという
  大きな相違に常に気づくだろう。


しかし、その他のもの(光らないものや同程度の光量のもの)を除き、

 攪拌されることでそれらの個々が一定の時間に起こす振動数に関係しているので、

  不透明な物体の粒子間には非常に注目すべき相違がある。


 
この量は常に莫大であるはずで、
 さらにエーテルの希薄さが1秒間に数千もの振動数を必要とするようなものであることを、
  わたしは既に述べた。


しかし、もしある粒子が、
 例えば、1秒間の振動数がどこまでも変えられる楽器の弦の場合のように、

  個々の小ささ、張力、弾力に従って、1秒間に10,000振動し、

   他のものは11000、12000、13000振動するなら、

    ここでこの(振動数の)相違は際限がないのだろう。


それゆえに、それこそが、私が高い音と低い音の相違を推論したことなのである。


 
この(振動数の)相違が音の本質であるため、

 さらに音楽の全理論の基礎とされるのと同様な特別な方法で、
  聴覚がそれ(振動数)により影響されるように、

   似たような光線の振動の周波数の違いが、
    視覚における特色として変化を生み出すに違いない

     ということに、異議を唱えることはできない。


 
もし、例えば、粒子が1秒間に10000振動し、
 さらにある種の光線を生じるならば、

  目に入ってくる光線は1秒間に10000回その器官の神経に衝突する。


そしてこの影響は、感覚と同様に、

 1秒間に多いか少ないかの振動をするさまざまな粒子により生成される
  それら(光線)とは
全く異なるにちがいない。


耳がシャープやフラットの音を聞いて知覚するそれに類似したものが視覚の中にあるのだろう。


 
あなたは疑いなく、視覚におけるこの相違が解決されるべきことであること、

 そして、さまざまな感覚が、1秒間にあらゆる物体内に生成される振動の数に
  多かれ少なかれ一致すること
を知りたいと望むだろう。


色の変化がこの相違に起因すること、


即ち、色の相違が、
 シャープやフラットの音が耳によるのと同様に視覚の器官にあることを、

  私はあなたに謹んで申し上げる。


それゆえに、われわれは、

 長きに渡り最も偉大な哲学者の気を引いてきた色の性質に関わる重要な問題を

  その(最も偉大な哲学者の)後を進むことなく、解決した。


 
かれらのあるものは、それを、われわれには絶対的に未知の光の修正と呼んだ。


デカルトは色は光と影の一定の混合にすぎないという説を支持した。


ニュートンは太陽の光を調べて行くことにより色の相違を説明した。

つまり、彼によると、色の相違は、物質が多少薄く広がるであろう真の放射であり、

 それゆえ、赤、黄、緑、青、紫等の全ての色の光線を安定させる、というのである。


しかし、この仮説はそれ自身を白紙に戻してしまうため、
 色は情報を運ばないとずっと言われてきた。


そしてあなたは、
それぞれの色の性質が、
 目にそれらをもたらす粒子により一定の時間内に生成される振動数で成り立つことを

  今やはっきりとわかっている。

              1760年6月12日

 

  "Go to Menu "                                        "Next  "