自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

前の手紙で説明した不透明な物体のあらゆる現象は明白に証明されている。


即ち、われわれが照らされた不透明な物体を見るとき、

 それが見えるようになるのはその表面から反射した光線によるのではないが、

  その微小な粒子は発光する物体の微小な粒子のそれと同じ攪拌の中にある。


しかしながら、この相違については、
 不透明な物体内の攪拌は自身で発光する物体ほど強力ではないといえる。


というのは、いかに多量に照らされようとも、

 不透明な物体は、発光体が行うのと同様の活発さで目に作用するのでは決してない。


われわれは不透明な物体自体を見ているのであり、

 決してそれら(不透明な物体)を明らかにする発光体の像ではない。


もしわれわれがそれらの表面の反射により見るならば、
 ちょうど発光体の光線がそれに特有のものであるように、
  不透明な物体により放出される光線はそれらに固有のものである、いうことであるはずだ。


不透明な物体が照らされるかぎり、

その表面の微小な粒子は、
 エーテル内で振動運動を生み出すのに適した攪拌状態にあり、

  例えば、光線を形成し、且つそれらが推進する物体の像を
   われわれの眼に描画するために必要である。

この効果のため、明らかに経験から納得できるように、
 光線は表面のあらゆる場所から全方向に拡散されねばならない。


というのは、われわれはどの面から不透明な物体を見ようとも、
 われわれは全ての点を一様に見る。

  続いて、全ての点が全方向へ放射する。


この事情は、方向が入射光線のそれ(方向)により常に決定され、
 反射される光線とこれらの光線を本質的に区別する。


ゆえに、もし入射光線が1/4発生すれば、
 例えば太陽なら、反射光線は単一方向にのみ続くことが可能である。

(訳注:入射光線が全方向から来た場合、反射の方向を特定できないが、限定された方向からの入射光線なら反射の方向が特定される、ということを言っている。)

不透明な物体が照らされるとき、
 その表面の全粒子は、物体が自身で発光する場合のように、

  光線を生み出す一定の攪拌状態に置かれるということが認められるはずだ。


その上、この攪拌は、発光する物体の光の激しさに比例してさらに強くなる。


このようにして、太陽に晒される同じ物体は、

 もしそれが部屋の中で日光によってのみ、
  または細ろうそくや月によって深夜に照らされた場合よりも一層激しく攪拌される。


最初の場合、その像は、もう一つ、特に後者よりはるかに活発に眼底に描画される。


月の光は、大きなサイズの文字を書きながら、
 ものを区別したり、本を読んだりするには全く十分ではない。


そして、不透明な物体が閉じた部屋または暗闇の中に運ばれると、何一つ見えなくなる。

 ―その部分の攪拌はまったく止まっている、
  つまり今やそれらは静止状態にあるということが確かな証拠だ

結果として、このように不透明な物体の性質が成り立つのである。


それらの粒子は自身静止しているか、
 さもなくば、少なくとも光を生み出すのに必要な攪拌がない。


しかし、これらの同じ粒子は非常に適切な位置に配置されているので、
 照らされるか、または光線を当てられると、
  それらは直ちに光線を生じるのに適切な一定の攪拌か、振動運動の状態になる。


そして、これらの物体を照らす光が激しければ激しいほど、この攪拌もまたより激しくなる。


不透明な物体が照らされている限り、それは発光する物体と同じ状態にある。


その粒子は同じ方法で攪拌され、さらにエーテル内の光線をそれ自身で発生する能力がある。


この相違とともに、すなわち攪拌は固有の力により発光する物体内で維持され、常に存続する。


ところが、不透明な物体内では、
 この攪拌は一瞬だけであり、それらを照らす光の運動により生成される。

この説明はあらゆる現象と一致し、

 さらにもう一方、即ち、われわれに反射を発見させたその考えの放棄を
  難なく決定させられると思い違いして苦労する。

全てのこれらの原因をじっくり考えるために
 率直に労を惜しまない者は、だれでもこれらの力を認めるに違いない。


しかし、まだ非常に大きな困難が解決するべく残ったままである。


照明の中にあるかもしれない相違が何であろうと、

 簡単に言うと、照明は不透明な物体の粒子を、
  光線を生み出す能力のある攪拌の中に置くことができるということ、
   さらに、この攪拌はほとんど同時に常に継続するはずであるということは、

    一体どのようにして起こるのか?

私はこの質問に答えることは不可能であることを認める。


たとえそれが結局は完全な反論にならないとしても、
 それは私の理論の大きな欠陥である。


つまり、それは反対論を何も含まないのである。


私が、照明がいかにして不透明な物体の粒子内の攪拌を生み出すのかを知らなかったと仮定すると、

 これは理論が不完全であることを証明するに過ぎない。


さらに、照明がこの効果を生み出すはずだということが
 絶対的に不可能であると証明されるまで、
  私の仮説は存続するはずである。


しかし、いかにして照明が物体の最も微小な粒子を攪拌するのか、
 をあなたに示すことにより、

  私はこの欠点を補う努力をするのである。


1760年6月5日

 

 

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