自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

われわれが太陽によって照らされる不透明な物体を見るとき、

 それが輝く光線を反射すること、

  及びそのような光線によりわれわれに視覚化されるということ

   を支持することはできない、と私は断言する。


鏡を例にすると、それは疑いなく光線を反射し、
 それに反論するというよりは、むしろこの意見を支持するのに使用される。


鏡がそれに降り注ぐ光線を跳ね返すことに反論の余地はない。


しかし、いつこれらの反射光線はわれわれの目に入るのか?
 またそれらは何を表わすのか?


あなたは、それは鏡ではなく、
 それらが本来は前進する物体である、と容易に答えるだろう。


そしてその反射は他の場所でこれらの物体をわれわれに見ることを可能にするだけのことである。


一方、われわれは、これらの物体を鏡の表面ではなく、むしろその中に見る。


そして、鏡それ自身はわれわれには不可視のままであるということは、真実と言えるだろう。

しかし、太陽により照らされる不透明な物質を見る場合、
 われわれはそのすばらしい球体の像をその中に見てはいない。


そのとき、われわれは、
 それらに見出されるあらゆる変化を伴った物体の表面を見るに過ぎない。


さらに、われわれは、鏡から反射される光線と不透明な物体が視覚化されることによる
 それらとの間の全くの本質的な相違を認める。


しかし、一方で鏡の中には同様に明白なもう一つの相違がある。


物体の場所またはわれわれ自身の条件を変えると、見かけが常に変し、
 
また、鏡から反射された光線は、

  物体の性質と位置、さらにわれわれが立つ場所により、

   われわれの眼に別の像を継続的に示すだろう。


しかし、私が既に述べたように、これらの反射された光線は鏡自体をわれわれに決して示さない。


では、物体を
 太陽または他の物体、
  つまり発光しているかまたは既に照らされている不透明体のいずれか、
   によって照らしてみよう。

どのような方法でこの物体がその場所を変えようとも、
 さもなくば、われわれがそれを相対的に変えようとも、
  その外観は常に同じである。


われわれは常に同じ対象をみて、
 前述のようにさまざまな環境に関しては変化がないことをそれに認める。


これは、われわれは
 それらの表面から反射された光線により
  不透明な物体を見るのではない
   という新たな証拠を提供する。


おそらく反論が生みだされ、
 われわれの視点が変わるのに従い、
  さまざまな反論を表わす鳩の首(訳注:ちょっとしたものの比喩か?)
   ある種のもの(がらくた)が引っ張り出される
だろう。


しかし、これは、どう見ても
 この変化の対象ではない普通の不透明な物体に関する私の結論を弱めることはない。

この反論は、例えば、
 それらの微小な粒子が繊細に磨かれていることや
  物体がわれわれに視覚化される、いつもの平凡な方法を除いて、
   本物の反射が起こるといったことのように、

    これらの個々の対象がある特性を与えられている
     ということ
を証明するだけである。

さて、この反射は、
 通常の不透明な物質が照らされる方法とは明らかに区別されねばならない、
  ということを理解するのは容易である。


最後に鏡から反射される光線は、
 それらが個々に発する物体の色と同様に、常にわれわれの前に現れる。


そして反射する鏡はこの関係を変えることはない。


ある他の物体により照らされる1つの不透明な物体は、
 如何なる方法であろうとも、常に同じ色を表す。


そして、あらゆる物体はそれにふさわしい色を持つというべきだろう。


この事情は、
 われわれがそれらの表面が反射する光線によって不透明な物体を見る
  ということを支持する者の全ての意見を完全に覆す。

わたしが今あなたの考えに対して送った全ての理由を考え合わせると、

 この意見が哲学もしくはむしろ物理学において全く支持できない

  と公言するのをためらうものは何もない。

 

しかしながら、私は得意げに希望を持って、

 一旦受け入れた意見に固執した哲学者がこれらの理由に従うべきだ

  とは思えない。


しかし、数学者とより密接に関わる自然主義者が、
 かなり納得する理由のせいで、覆された意見を放棄するのは容易だろう。


あなたはキケロがこの問題に関して一言言ったことを再び思い出すだろう。

 どの哲学者によっても支持されないような不合理なものは何一つ考えられない。


事実、私が論駁してきた仮説がいかにあなたに奇妙に見えようとも、
 今までのところ、それは宣伝され、非常に熱心に保護されてきた。


私が暴こうと努力してきた困難と反論が

 この仮説の熱心な支持者により理解不能か、無視された

  と言う事は不可能である。


偉大なニュートン自身はそれらの力を強く感じた。


しかし、かれが、光の伝播に関する全く支持できない考え方の中に留まっているので、

 かれがこれらの多大な困難を見落とすはずである、
  と怪しむべきではない。


また、一般的に、理解の深さは、

 一旦、受け入れられた意見を支持するという不条理に人が落ち込むことを

  常に予防してくれるわけではない。

しかし、もしこの仮説、即ち不透明体は反射光より視覚化されることが、
 偽であるならば、
  その熱烈な支持者は言うだろう、その時、真実は何か?


彼らはこの現象の別の説明を想像することも不可能と考えるだろう。


一方、哲学者が、いかなるテーマであろうともその無知を知ることは、
 むしろつらく屈辱的である。


かれはむしろ最もひどい不条理を支持するだろう。


特に、もしかれが不可思議な言い方をして
 それらを解決するための秘策を持っているというならば、
  それを理解できるものはだれも居ない。


この場合、一般大衆は学者たちを許したい気分になるのである。


それを当然のことと思うので、他人にはあいまいなことがかれらには全く明らかなのである。


非常に卓越した知識が、
 あまりにも高尚すぎて解りにくい−知識のふりをする場合、

  われわれは常にわずかな疑惑にも(判断力を)働かせねばならない。


私があらゆる困難を排除した方法で問題の現象を説明できるだろう。

1760年7月1日

 

 

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