自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

いかに著名なニュートンの学説が変わっていようとも、
 明らかに光線は継続的な放射により太陽から進んでくるということである。


しかしながら、問題になっていることを叫ぶことが勇気のいる試練を必要とする、
 ということはあまりに一般的に受け入れられ過ぎた。


主にこれに貢献してきたことは、
 疑いもなく、天体の運動の真の法則を最初に発見した偉大な英国の哲学者の高い評価であり、
  それは放射の仮説にかれを導いたこのすばらしい発見である。

デカルトは、彼の理論を支持するために、
 天上の物体全てが完全に自由に運動する間、
  薄く広がる物質で天上の空間を満たす必要があった。


しかし、もし物体が空気中で運動するならば、
 一定の抵抗を受けねばならないことは良く知られている。


天上の物質がいかに薄く広がっているか仮定できる、
 とニュートンが結論したことから、
  惑星はそれらの運動において何らかの抵抗にあうはずである。

しかし、かれは、運動は如何なる抵抗にも晒されない、と言った。


それ故に、天上の膨大な空間は物質を含んでいない。


その上、完全な真空が普遍的に広がっている。


これが主要なニュートン哲学の学説の一つである。


つまり、膨大な宇宙は天上の物体により占有される空間に物質を含まない、というのである。


太陽とわれわれの間の、
 または少なくとも太陽から地球の大気までの間の絶対真空には横たわるものがある。


事実、われわれが上昇すればするほど、
 われわれは空気がどんどん薄くなることを見出し、
  そしてついには空気は完全に失われる。


もし太陽と地球の間の空間が絶対真空であるならば、
 ベルの音が空気により送出されるような伝達方法により、
  光線がわれわれに到達することは不可能である。


というのは、もしベルとわれわれの耳の間に介在する空気が無に帰したなら、
 われわれは、ベルがいかに激しく鳴らされようとも全く何も聞こえないだろう。

天体の間で完全真空は成立するので、承認されるべき意見は放射の学説の他には無い。


そこで、ニュートンは、
 太陽と全ての他の輝く天体が、
  常にそれらの質量をなす無限に小さい粒子であり、
   且つ信じられない力でそれらから放たれる光線を放射する、
    という説を支持することを余儀なくされた。


それらが8分の空間を太陽からわれわれへ向けてやってくる、
 あの想像もつかない速度は、
  光線を印象づける
ため、非常に高速でなければならない。

しかし、惑星がその運動において少しも抵抗にあわない天空で、
 絶対真空を必要とするニュートンの先導的学説で
  この理論が成り立つのかどうかみてみよう。


瞬間の反射の場合には、
 天体が回転する空間は、真空の代わりに、
  太陽ばかりでなく、同様に四方八方から全方向に信じられない速度で
   連続通過している他の全ての星の光線で満たされるにちがいない、
    とあなたは結論するにちがない。


これらの空間を横切る天体は、
 真空に出会う代わりに、
  たとえそれが静止状態にあったとしても、
   よりいっそうそれら(光線)の運動でこれらの物体(天体)をかき乱すにちがいない、
    ものすごい攪拌の中で輝く光線という物質に出会うだろう。


かくして、デカルトが想像したような
 薄く広がる物質が惑星の運動をかき乱しはしないか
  と懸念したニュートンは、
   惑星は永久にもっと多くのかく乱に曝されねばならないというかれの仮説において、
    彼自身の意図とまったく矛盾する、非常に変わった便法に頼った。


私は既に、放射の仮説へのさまざまな他の克服不能な反論をあなたに提示してきた。


そして、いまやわれわれは、
 ニュートンに承認するよう説得できる、
  最重要で本当の唯一の理由は、
   それを完全に覆すことと同様の自己矛盾である、
    ということを知った。


たとえそれを発案した哲学者の権威は尊敬すべきであるとしても、

 結び付けられたこれらの熟考は、
  この変わった光の放射の仮説の放棄について躊躇する余地をなにも残さない、
   これが全てである。

ニュートンはこれまでに存在した偉大な天才の一人であることに疑いはない。


もっとも隠された自然の神秘への彼の深遠な知識と鋭い洞察力は、
 現在もいつの未来にも正に称賛の対象であろう。


しかし、この偉大な男の誤りは、
 人間の理解力の欠点についてわれわれに忠告をするのに役立つはずである。


つまり、最大可能な高みに飛翔した後は、明白な真逆方向へと突っ込む危険があるのだ。


もしわれわれが、われわれの感覚の調査に晒されている、
 この目に見える世界の現象の研究において、
  とかく面目を失うような優柔不断や矛盾に陥りがちであるならば、

   われわれは、不可視なものについてわれわれを好きなようにさせてきた、
    さらにわれわれの永遠の救済に関わる神をもたねばならないとは、
     いかに不幸であろうか?


この重要な論説において、啓示が絶対的にわれわれには必要である。


そして、われわれは、もっとも深遠な敬意をもってそれを利用すべきである。


それが、想像もつかないように思えるものをわれわれの前に現わすとき、

 われわれは、とかく感覚的な対象にはなお誤解しがちな、
  人間の理解力の不完全さを省みなければならない。


宗教の真理に対し痛烈に非難し、
 もっとも傲慢な自己満足でそれに軽蔑を表わす偽りの自由思想家を耳にするときはいつも、
  わたしは、次のように自分に言い聞かせる。


−貧しく弱い人間というものは、
 いかに言葉に言い表せないほどより高貴で崇高であろうと、

  偉大なニュートンがそれほど大きな誤りを犯した!そのことよりも、

   あなたがそうもったいぶることなく論じるテーマなのである、と。


わたしは、惜しくも度々それを起こさせる原因となる記憶の中に
 この反省を常に留める事を殿下に望みます。


1760年6月10日

 

 

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