自然哲学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙

 

われわれが楽しむあらゆる熱と光の中心である太陽光線について話してきたので、
 あなたは疑いなくこれらの光線は何か?と尋ねるだろう。


無限にある現象がそれに由来するので、
 これは確かに物理学における最も重要な疑問の一つである。


光に関するあらゆるものや対象物を見えるようにするものは、この疑問に密接に関係している。


古代の哲学者はその解決にほとんど興味を持っていなかったようだ。

かれらは、太陽は光り輝き、熱と光を与える性質を付与されている、
 と言う事でそれらに満足した。


しかし、疑問に時間をかけるほど価値は無いのか?、
 この本質はどこから成り立っているのか?


太陽自身のまたはその物質の、
 想像もつかないほど小さなある部分がわれわれに降り注ぐのか?


さもなくば、その伝達は耳が受けるベルの音と同じなのか?


私が音の伝播および知覚を説明するときに認めたように、
 ベルの物質の一部がそれから分離されるわけではないが。

最初の近代哲学者デカルトはこの最後の意見を支持した。


そして、かれが第二の要素と呼ぶ
 細かな小球体で構成される薄く広がる物質で全宇宙を満たすことで、
  太陽がこれらの小球体を放つ継続的な攪拌の状態にあり、
   そしてそれらは宇宙のあらゆる部分へ瞬時にそれらの運動を繰り返し伝達する、
    と仮定した。


しかし、太陽光線が瞬時にわれわれに達するのではないということ、
 さらにそれらが膨大な距離を飛ぶのに8分かかることが発見されて以来、
  別の困難をもって悩ませたデカルトの見解は放棄された。

その後、偉大なニュートンは前者の仮説を受け入れ、
 そして明るい光線が実際は太陽の本体から分離されること、
  また光の粒子が、約8分でわれわれにもたらされるという
   あの考えられない速度で放射される説を支持した。


特にイギリスの最も現代的な哲学者のこの見解は、“放射の仮説“と呼ばれる。
 −それは、水が噴水から放出され、跳ね飛ぶように、
   光線が太陽や他の輝く物体からから放射されるということを想像させる。

この見解は一見非常に大胆で、道理に矛盾するように見える。


太陽が継続的に且つ全方向に、
 そのような輝く物質の湧出を桁違いの速度で放射したなら、
  太陽は早々に使い果たされるにちがいない。


さもなくば、非常に多くの年月の経過の後に、
 少なくともなんらかの(交互)変化が感知されるはずである。

しかしながら、これは観測により否定される。


全方向へ水の細流を放つ噴水が放射の速度に比例して浪費されるのは当然である。


光線が想像もつかない速度で放射される太陽ではなおさらである。


光線を形成する粒子が、
 あなたの気に入るように薄く広がっており、
  増加させるものはなにもないと仮定してみよう。


この仮説は、結局のところ全く擁護し続けることができないだろう。

この放射が全方向に行われていないとは断言できない。


というのは、あなたがどこにいようとも、
 太陽全体が見える、つまり、太陽のあらゆる場所から来る光線は、
  あなたが占有する場所に向けて放射されている、
   ということが明らかに証明しているからだ。

この場合、全方向に水の細流を放出する噴水のそれとは全く異なる。


つまり、噴水の中の1点は、ある特別な地点へ向けられたただ一つの細流で与えられるのである。


しかし、太陽表面のあらゆる場所は、
 自身を攪拌しながら、全方向へ無限に放射している。


この環境は、太陽が作らねばならない光り輝く物質の消費を永遠に増大するだけである。

全く克服できないかに思えるもう一つの困難は、
 太陽が光を放射する物体であるというだけでなく、
  全ての星が同じ性質を持つことである。


そして、あらゆる場所で太陽の光線が星の光線と交わるに違いないので、
 それらの衝突は極めて激しいはずである。


それらの方向はそのような衝突により変えられねばならない!


この衝突は、同時に見える全ての輝く物体について起こるに違いない。

しかしながら、
 各光線はまぎれもなく他の光線から最も小さな攪乱を受けることもないように見える。


−多くの光線はお互いに撹乱することなく同じ場所を通過するかもしれない
 という一つの確かな証拠であり、
  それは放射の仮説と両立しないように思える。

2つの噴水がお互いに交わっているとしよう。


そしてあなたはすぐに妨げられ且つ混合されるそれらの異なった細流を認めるだろう。

光線の運動は、
 噴流のそれや一般的に強制的に放射される全ての物質とは全く本質的に異なる
  ということが結論として推測されるはずである。


光線が自由に全方向に放射される透明な物体を後に考えると、
 この仮説の支持者は、
  これらの物体が、表面のあらゆる場所から流出し全方向に推し進める、
   直線的に配置された細孔を含んでいることを確認する必要性に迫られる。


太陽光線が最小の衝突もなしに
 そのような驚くべき速度で伝達される通過経路とは如何なるものであるのか想像もできない。


ここに、非常に硬い外観をもつにもかかわらず非常に多孔質の物質がある。


最終的に、画像を楽しむためには、
 光線が目の中に入らねばならならず、
  且つ同じ速度でその物質を貫通しなければならない。


まとめると、疑いなく放射の仮説が自然の基礎とは関係ないことにより、
 あなたは全てのこれらの困難を十分に納得するだろう。


そしてそれがあまりに偉大な一人の男により考え出されてきたこと、
 さらにあまりに多くの啓発された哲学者に受け入れられてきたことに、
  あなたは確実に驚かされるだろう。


しかし、キケロが述べた言葉がある、
 哲学者の間で支持者が見出せないほど、不合理なものは考えられない、と。


私はというと、
 わたしは取るに足らない哲学者なので、疑問におけるこの見解を採用できない。

                      1760年6月7日

 

 

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